投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 1月 9日(金)22時29分38秒  

正しい信心があれば、功徳が出て当然です。功徳の出る信心ができるのは、
唯一創価学会だけであるというのが我々の主張であります。
功徳は信仰の大前提であり、それが顕現されないのであれば、
そこに正しい信心は存在しないということになります。
ちなみに功徳論については、いくらでも深く論じることはできますが、割愛します。

題目を、命に刻みつけるようにひたぶるにあげ抜いた経験のない人は、やはり信心に対する確信がない、もしくは弱いです。日蓮仏法とはシンプルなもので、自分も題目を唱え、人にも題目を唱えることを勧めていく、ただこれだけのことです。

結局題目であり、その題目のすごさを語っていくこと。その人が善知識であり、触発を生む。
組織においては、一人ひとりが題目をあげ抜いて、功徳が満ち溢れている状態をつくっていくことが大事になります。そういう組織であってこそ、人が集まるわけです。衰退している組織は、やはり功徳が溢れていません。

今の学会の組織においては、功徳が溢れている組織のほうが稀でしょうし、
功徳が溢れてこそ人材も溢れてきます。これが道理です。

功徳を塞き止めているものは何なのか。リーダーはそこに注目し、
その要因を一つひとつ除いていくこと
そういう視点に立たない限り、組織を発展させていくことは極めて難しいと思います。

創価学会は、人の数は十分います。活動家の数が少ないだけです。
組織のシステムやありかた以前に「信心の確信がない」という根本原因を解決するには、いかに功徳を実感させることができるか。これも重要な観点なのです。

土台は丹念に、心血注いでつくっていかなければなりません。組織の打ち出しだからやるというレベルではダメであり、そもそも人に言われて動いているようでは何も掴めないというのが私の実感です。

創価学会は、広く浅い団体になってきた印象があります。今回の会則改正も浅いです。
青年部においては、全然教学の研鑽はしておりませんし、していても切り文研鑽程度。
深みのない上辺だけの信心では、そもそも魅力がないし、会合に参加しても「信心すごい」とはならない

原点回帰ではありませんが、もう一度正しい信心のありかたについて、個々が自分で考えることが大切ではないか。
信心とはいつのまにかわかっているつもりになってしまうものだから

長くなりましたが、私の投稿が、考える一助になれば幸いです