投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 1月 9日(金)22時28分53秒  

法華経に迹門・本門・文底とあるように、創価の信心にも三つの段階があると思っています。
第一段階は、功徳を求める信心です。所謂「信心すごいな体験」をしなければ次の段階には進めない。
第二段階は、師を求める信心です。ここで急速に人間革命がなされていく。
第三段階は、師弟不二の信心です。師の精神を正しく継承し、法を弘めていく。
悪との闘争もここに含まれてきます。

第一段階は、功徳重視であり、第二段階は、功徳と人間としての成長、第三段階は、
広宣流布そのものの信心ということです。

浅い信心から深い信心へと入っていく、信心の深化が大事であると考えます。

「貧病人と病人の集まり」と言われた時代においては、功徳論を全面に出し、広宣流布を進めた。戦後焼野原で何もないところからスタートし、人々も生きるか死ぬかの瀬戸際にいたわけです。もはや功徳が顕れなければ終わってしまうような、ぎりぎりラインの攻防戦であったことでしょう。今の時代とは、切羽つまりかたが全然違うわけで、その分、真剣に信心に励んだ結果、圧倒的な功徳が湧現したのではないか。

一方、今の時代はどうだろうか。豊かになり、物は溢れ、便利すぎるくらい便利な世の中になりました。これ以上便利になる必要はないくらい便利であり、衛生面もしっかりしています。悩み自体も千差万別で貧乏・病気というカテゴリーにあてはまらない、複雑な構造を擁しています。病に関しては、身の病よりも心の病への比重が大きくなり、学会指導では、まだまだ心の病に関する記述はほとんどない状況です。

満たされているのだけれども、何かが満たされていない。その心の空虚さの時代こそが現代ではないか。罰論でも功徳論でもない、新しい論でなければ対応できないと私は見ています。

かく言う私も、高校の時に人生の空虚さに直面しました。こんなに人生とはつまらないものかなと考え、悶々としていました。学会2世である私は、一応信心はすごいとは聞かされていましたので、この状況を打開できるかどうか試しに実験してみようと思い、朝晩の勤行(当時五座三座)と一日一時間の唱題を一年間かかさずに実践しました。

朝晩の勤行と唱題行を実践した結果、感じたことは、「命の躍動感が全然違う」ということ。命が歓喜しているのがわかるようになり、空虚な人生が一変しました。題目のすごさを命で実感した一年となりました。
そこから池田先生の書籍を貪るように読むようになり、学校の帰り道では友人に仏法対話をしまくっていました。

ある婦人に「あなたは信心の塊のような男ね」と言われたことがあります。その淵源をたどるならば、高校時代の一年間の勤行唱題の実践の中でつかんだ信心の確信、これが核となっています。

この土台があるからこそ、広宣流布という観点に立った信心に立つことができるのです。