2015年1月9日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 1月 9日(金)22時28分0秒 凡夫の姿で広宣流布(仏の仕事)を推進するには、功徳が不可欠です。広宣流布というのは、功徳をバンバン受けて進めていくものです。必要なのは活動体験ではなく、功徳の体験です。功徳の歓びを語っていくのが折伏であり、学会活動の根幹になります。戸田先生はこれを豆腐とオカラの関係で説明しています。 豆腐=功徳 オカラ=広宣流布 一人ひとりが大いに功徳を受け、歓びを語っていった結果として広宣流布は進む。これが末法の衆生にとって、もっとも適したありかたです。また、広宣流布の信心というのは「自覚」の信心です。功徳の信心から広宣流布の信心への転換は、人に言われてできるものではない。 「広宣流布はやりたい人間がやればいい」 宗教のための人間ではないというのはこういうことです。 凡夫と仏は一体といっても、凡夫が表なのです。高尚な話(仏)が表だとついていけません。 これが人間学であります。 「広宣流布のために、宝くじ一等当たれ」と祈っても絶対に叶いません。 なぜならこれはウソだからです。 「贅沢三昧するために、宝くじ一等当たれ」、これが真実でしょう。 まだこっちのほうが叶う可能性がある。 広宣流布の信心という達観した境地に立った祈りは、当然実現する可能性は高いですが、 それが本心かどうかが問題なのです。 基本的に学会活動の目的も「功徳のため」というのが本当のところでしょう。テ レビの選挙中継で学会員の婦人部が「支援活動すると功徳がある」と言っていましたが、 活動のモチベーションはそこの場合が多いでしょう。 財務だって、功徳が強調され、中では「財務は3倍返しよ」と吹聴する婦人部も存在します。 私はこれを「頑張っていればいつか良いことあるだろう信心」と名付けています。 問題はこの信心のありかたに功徳があるのか否かということではないでしょうか。「功徳」という言葉で会員を利用(頑張らせる)する幹部もいるぐらいです。活動に精を出している人はたくさんいますが、座談会等になると、功徳の体験を語れる人がほとんどいないという状況は一体何を意味しているのか。 とくに2世、3世なんて功徳の体験が乏しい。功徳を実感できてこそ、広宣流布の信心へ転換することができる。体験があろうとなかろうと、真面目に学会活動しているだけで、役職はあがっていきます(断れない空気)。そしていつしか、なんのためにやっているかがわからなくなり、役職がある故につぶれた人を何人もみています。 功徳の実感なくして広宣流布の信心への転換は無理なのです。もしも無条件で転換できる人がいれば、それは「聖人レベル」であり、稀な存在であると考えていたほうがいいでしょう。決していないわけではありませんが。 まずは、活動の対価として功徳を得るという発想からの脱却が必要と考えます。 Tweet