投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 4月 8日(金)13時15分29秒   通報
私たちの立場で言えば、池田先生は自身がどんな境遇(辞任)になろうとも、
ただひたすらに私たちの幸福を願い、各々の生命に仏界を開かせるために、

障魔を吹き払い、死力を尽くして言葉を発し続け「生命の本当の姿とは何か」を世界に向かって説き続けました。

悪とは何か、善とは何か、賢人聖人とは何か、愚者とは何か、何と戦うのか、何と団結するのか、
広布を阻むものとは何か、権威主義とは何か、生命尊厳とは何か、人間主義とは――等々、先生の指導は膨大です。

しかし、先生も八十八歳の高齢になりました。

今度は先生に代わって、私たち弟子が
先生の発した言葉を自身の胸中に鳴り響かせて進めば良いと思うし、御書と先生の指導を中心にして団結し、
自身の言葉で、自身の責任で、自身の個性で、自身の表現で、桜梅桃李の如く自分らしく言葉を発信していけば良いと思う。

私たちは誰かの兵隊でもなければ、奴隷でもない。

先生の弟子同士、共感できるところは共に協力し、共感できないことはやらない。
正しいと思うことは正しいと言い、悪いことは悪いと言う。そこに役職や立場は当然ですが関係ありません。

一人の人間として先生の言葉を心の中心に置いて堂々と進めば良いと思う。

信心する目的は、人間(境涯)革命すること、つまり成仏することなのですから地位や名誉など関係ないのです。

話をもどします。
「凡夫は自身の心に迷ってそれを知らずに悟らないのである」(同頁)

凡夫である私たちも仏と同じく、仏道修行をすれば仏が悟った境涯を享受できると言っているのに、
それが分からず、我が心に迷い、我が生命に仏界があることを知らず、それを悟ろうともしないと仰せです。

そもそも凡夫と仏の違いはどこにあるのかというと、自らの心の本性を知っているか、それとも知らずに迷っているか、だけなのです。

そして
「仏はその心の働きを悟りあらわして、神通と名づけたのです。
神通とは神が一切の法に通じて礙(さわ)りがないことをいうのである」(同頁)

と述べ、仏が知り尽くしている心の不思議さを「神通」と名付けました。

その心の不思議な働きを縦横無尽に使って言葉で表しているのが仏です。
そしてその集大成の記録書が一代聖教であり八万四千の法蔵なのです。

つまり、この八万四千の法蔵は仏の一身に具わったものを明かしたものです。
だから大聖人は「八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり」と結論したのです。

しかも仏の一身に具わっている法は衆生にも等しく具わっているというのが仏法の結論であり大原則です。

その衆生たちを自分の意のままに操ろうとする人間は、仏からみれば皆、仏敵です。

学会員であるとか、ないとかは関係なく、人権を蹂躙する輩とはどんな形であれ、人権闘争をするべきです。

現代においてその先頭に立って戦ったのが
ヒンズゥー教徒のガンジーであり、キリスト教の牧師であるマーチンルーサーキングであり、仏教徒の池田先生だと考えます。