投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 4月 8日(金)13時14分30秒   通報
これらは一例ですが、人の心に善や悪があるのであって、百円ライターやパチンコ店に善も悪もないのです。

仏の境涯からすれば、心以外に善も悪もないと見ているのです。

つまり、物や人を善とか悪とか決め付けず、しかも肯定も否定もしない――これを「無記」と名づけました。

要するに、一切は善にも悪にもなり得るということです。

次ぎに
「善と悪と無記と、この外には心はなく、心の外には法はないのである。
このゆえに善悪も浄穢も凡夫と聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も、
すべて言語の道は断え、心行も所滅するのである」(同頁)ということですが、

生命の本当の姿(実相)は、善でもなく、悪でもなく、それでいて善にもなるし、悪にもなる。
決め付けているのを否定もしないし、肯定もしない――これが真実の心の在り様であり、仏はその心をもって法を説いたのです。

大聖人は仏の境涯から見れば、
善も悪も、浄土も穢土も、凡夫も聖人も、天も地も、大も小も、東も西も、南も北も、
四惟(西北・西南・東北・東南)も、上も下も、すべての相対的な概念などは離れて超えているのであり、
仏が悟った境涯(仏界)は言葉では表しようがなく(言語道断)、凡夫の思考も及ばない(心行所滅)と述べています。

しかしここで疑問が湧いてきます。

そもそも仏が悟った境涯は、本来「言語道断・心行所滅」とあるように
言葉では表しがたく、どうせ凡夫に話してもわかる訳ではないのですから
悟りの内容を説くのは止めて、黙っていてもいいのではないかと思うのです。

それなのになぜ仏は法を説き続ける必要があったのでしょうか。
この疑問に対して大聖人は本文のなかで、天台の止観の文を引用し見事に答えています。

要約すると、具体的な事象に即して真実を語ることが大切であり、
仏法を全く聞いたことがない衆生を哀れむがゆえに説法をしたというのです。

つまり、仏の説法は「慈悲」が出発点になっているということです。

たとえば、月が幾重にも重なった山に隠れてしまえば、月によく似た扇を差し上げて月にたとえ、
風が大空で止むと樹木を動かして風の存在を教えるように、言葉では表しがたいけれども
仏の慈悲のあらわれとして、いかなる衆生にも分かるように仏法を説くというのです。

「月」が仏の悟りそのものだとすれば「幾重にも重なった山」は煩悩だと言えます。

本来、凡夫も聖人も差別なく、この尊極の悟りそのものの月が一切衆生にはもともと具わっています。
だから仏法は生命尊厳の哲学と言えるのです。どの生命にも差別はなく貴賎上下はありません。

幾重にも重なった煩悩という山にその月が隠れて見えないだけなのです。

このことを衆生に教えるために
「心で分別した思いを言い表すのが言語であるから心の外には分別も無分別もない。
言葉というのは心の思いを響かせて声にあらわしたものをいうのである」(同頁)

と述べられているのです。