2016年4月8日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 4月 8日(金)13時13分37秒 通報 この御文の前文で大聖人は、仏の悟った内容とはどういうものかを示されました。 その内容を簡単に言うと、 それは生命の実相を覚知し、生命の本当の姿を覚知したということです。 つまり、我が身が一念三千の当体であると覚知した境涯の内容を説明している所です。 生命の本当の姿を覚知し、この境涯に立って物事を見れば一切の法に通じ、一切世間は皆仏法だと理解できるということなのです。 そして生命の本当の姿を悟ることを「一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する」ということであり、 そこに真実の成仏があることを教えられました。 カネが儲かった、貧乏になった、事業が成功した、事業が失敗した、 人間関係が改善された、人間関係が悪化した、病気が治った、病気が治らない、学会が発展した、学会が消滅した――等々、 これらを相対して幸・不幸があるのではなく、信心の厚薄があるのでもなく、功徳信仰でもないということです。 さて、一切の法は皆仏法の表れなのだと覚知した仏の境涯は「善悪」をどう見ているのでしょうか。 それを説いているのが、革命こそ蘇生さんが質問された御文です。 それでは見ていきましょう。 「善に背くのを悪といい、悪に背くもを善という。ゆえに心の外に善はなく、悪もない。この善と悪とを離れるのを無記というのである」(同頁) この御文は端的に善と悪の定義を述べたものだと思います。つまり、善の定義は「悪に背いている」ということ。 悪の定義は「善に背いている」ということであり、しかもその善悪は「心」以外には存在はしないと述べています。 たとえば、百円ライターは善でも悪でもありません。 しかし、仏に灯明を供養したいという善の心をもった人がその百円ライターを使って 仏前にあるロウソクに火を灯せば、善の行いを成就した百円ライターです。 反対に、人を殺そうとする悪の心をもった人が百円ライターを使って家を放火すれば、 その人は放火罪に問われ、百円ライターは放火する武器となって悪の行いを成就したことになります。 また、パチンコ店は善でも悪でもありません。 友人を激励しに行こうとする善の心をもった人が友人宅に向かう途中、早く着きすぎたので 時間つぶしにパチンコ店に入店してパチンコをやり、友人にお土産を買う程度に儲かれば、 その人にしてみればパチンコ店は諸天善神に思え、パチンコ店は友人の激励を応援した行いを成就したことになります。 反対に、家族をパチンコで養おうと思う人がパチンコ店に通い、 負けが続いて、家族の反対を押し切って貯金を崩してまでパチンコ店に通ったとしたら、 やがてその人は家族の信頼を失い、人としてダメな人間になっていきます。 そうなると、家族からすればパチンコをする人は、家族を不幸にする悪人になるし、悪に加担したパチンコ店になってしまいます。 Tweet