投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 1月 8日(木)20時41分36秒  

衆生身心御書(P1591)に三人の使いの話がでてくる。

1、非常に賢い
2、愚かでもないがまた賢くもない
3、極めて愚か

この中で一番優れた使いはどの使いか

第一の使いは過ちがない。第二の使いは第一の使いほどではないが少し賢いので、主人の言葉に自分の言葉を添えるので最も悪い使いとなる。第三の使いは極めて愚かであるが故に、自分の言葉を交えず、極めて正道であるから主人の言葉を違えず、第二の使いよりもよい使いとなり、ともすると、第一の使いよりも優れた使いとなるのである。

これは、第一の使いはインドの四依にたとえ、第二の使いは中国の人師にたとえ、第三の使いは末代の凡夫のなかでも、愚かであるが正直な者にたとえるのである。

我々創価学会員にあてはめて考えると、創価三代の会長の指導をどのように継承し、
伝えていくかということではないか。

第一の使いは、先生の心をくみ取り、その精神を正しく伝えていき、自身も実践する者
第二の使いは、先生の指導を、ねじまげて解釈したり、利用する者
第三の使いは、深い意味はわからなくても、とにかく指導通りに実践する者

結局、先生の指導通りに実践すれば、創価学会はもっともっと発展し、
おかしな方向に進まずに済む。小賢しい幹部を間に挟むから、組織も歪んでいくわけです。

先生の指導に反する幹部の振る舞いや、組織のありかた等を生み出しているものは、
第二の使いである小賢しい人間たちなのである。

何事も中途半端が一番良くない。愚かでもなく、賢くもない人間が、
結果的に悪に加担し、善人を苦しめる働きをしてしまう。
そしてそれを本人は気づかない。

自分が賢くなることは元より、先生の指導をその通りに実践していく人を増やすこと。
そして、先生の指導とは違う動きに対して声をあげる。

当面の戦いはこの「小賢しい人間」たちとの戦いである。