広宣の道を開くカギ。 ①
投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月 9日(火)10時25分19秒 返信・引用

今年は、大聖人の竜の口の法難(文永八年〈一二七一年〉九月十二日)から七百二十年となる。
大聖人は「頸の座」の虎口(きわめて危険な状態)を脱せられ、佐渡に行かれるまでの間、二十余日、神奈川の依智におられた。
その間、鎌倉は騒然たるありさまであった。放火が七、八回。殺人も連続して起こる。
そして、それらの犯人がみな大聖人の門下だと宣伝されたのである。

「種種御振舞御書」には、
「讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人しるさる、皆遠島へ遣すべしろうにある弟子共をば頸をはねられるべしと聞ふ、さる程に火をつくる等は持斎念仏者が計事なり」(御書九一六頁)と仰せである。

――讒言の者ども(権力者に人の悪口を吹き込む者たち)が言うには、「日蓮の弟子どもが火をつけたのです」と。
(権力者たちは)「そうにちがいない(さも、ありそうなことだ)」として、「日蓮の弟子等を鎌倉に置いてはならない」と二百六十余人、リストに挙げられた。

「全員、遠くへ島流しになるにちがいないか」「牢にいる弟子どもは、頸をはねられるにちがいない」と、うわさが伝わってきた。
しかしながら、放火や殺人等は持斎(律宗等の僧をさす。《戒律を持った》と自称する者。とくに極楽寺良観の弟子たちかと推測される)や念仏者の計略であった――と。

「讒言」――その心は卑しい。しかし残念なことに、多くの場合、その効果は大きい。
メディア(伝達手段)の発達した現代では、なおさらであろう。

本来、北条時宗から処刑中止の命令がくだったのであるから、その時点で大聖人は解放されてもよかったはずである。
ところが依智で、三週間以上も囚われのみのままであられた。その間に《僣聖増上慢》の極楽寺良観や、平左衛門尉たちは、密謀をこらしたにちがいない。どうすれば大聖人を亡き者にできるか――。

そうしたところに、あまりにもタイミングよく、放火や殺人の事件が起こったのである。
「日蓮の弟子たちのしわざだ!」――うわさが駆けめぐった。もちろん謀略である。
その結果、二百六十余人もの人々が鎌倉追放と記帳された。
比率からいえば、現代の学会なら数万から数十万人にあたるだろうという人もいる。

「讒言」のなかには、あるいは大聖人門下でありながら、世間の風圧を恐れ、また自身の卑しい心などのため、師匠と同士を裏切り、かえって敵のほうについてしまった者たちの《偽りの証言》もあったかもしれない。

乱れ飛ぶ情報、ちらつく権力の刃――何が真実で、何がウソか。
だれを信じ、何を基準に進めばよいのか。
不安はふくれあがった。その揺らぎに「魔」はつけこんでいったのである。
「魔」を「魔」と見破った人だけが、師とともに忍難の正道を歩みぬいていった。