投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2016年 3月16日(水)13時35分36秒   通報
★☆池田大作全集89巻 第一回青年部「3.16」記念大会 (1998年3月13日)より抜粋 2/2★☆

【民衆とともに、民衆のために】

では、どうして、キリスト教が、大衆の心をつかめたのか。

トインビー博士は「それには、三つの理由があった」として、こう論じている。
「第一に、大衆を、単なる『労働者』としてあつかわず、ひとりひとりを『魂をもつ人間』として、あつかったからである」

一人一人が大事なんだ、尊厳なる生命なんだ、魂をもつ人間なのだ――と。
労働者とか下層階級とか――そういうふうに″束ねて″は考えない。″一人″を考える。一人一人を思いやる。
創価学会も、民衆一人一人の現実の苦悩に同苦してきた。諸君のお姉さん・お兄さん、お父さん・お母さん、おじいちゃん・おばあちゃん――皆、そうである。

一軒一軒、弘教に歩いた。一人一人、いろいろな話を聞いてあげた。″一人″のために、それはそれは、大変な苦労を積み重ねてきた。「自分も苦しかったんだよ」。あるいは「今も、苦しみと戦っているんですよ」と。

だからこそ、相手の苦しみがわかる。一緒に、悩みを乗り越えていこうと話ができる。尊大ぶらない同苦の姿。これほど尊いものはない。
学会は、大衆をマスでとらえて労働者階級と見くだしたり、貧乏人の集まりと軽蔑する勢力とは、根本的に違う。人間に、上も下もない。生命に、金持ちも貧乏人もない。すべて、日蓮大聖人のもとに平等である――という世界である。
草創期のキリスト教も、信仰のもとに平等であるという信念で、民衆の心の中へ飛び込んでいった。
さらに――トインビー博士は指摘する。

「第二に、大衆のなかでもとくに、自治体も帝国の政府も面倒を見ていない、いちばん苦しんでいる『孤児』『未亡人』『病人』『老人』の世話を、キリスト教徒たちが、したからである」と。

自治体も政府も面倒を見ず、苦しんでいる人々――そういう″いちばん苦しんでいる人々″の面倒を見た。
創価学会も、そういう人たちと、いつも接し、守り、その人たちのために戦ってきた。そのために、学会は長い間、″貧乏人と病人の集まり″と侮蔑されてきた。

【「大衆に尽くした」から勝った】

こういう心ない言葉に対して、ある海外の識者は厳しく言った。

「何を言うか。それこそ、本当の宗教ではないか。金もうけの宗教は、金持ちばかりを大事にするものだ。創価学会が、いちばん、貧しい人々の中へ飛び込んでいっている姿こそ、学会が、まことの宗教である証拠ではないか」

人間よりも金――多くの宗教がそうなっている。日顕宗が典型である。それを邪教と言う。
必ずや、日蓮大聖人からお叱りを受ける。三世十方の仏菩薩に見放される。そして衰亡の一途をたどっていくことは間違いない。人間個人においても同じである。
トインビー博士いわく。
「第三に、キリスト教徒たちは、自分たちの支持者を増やそうという野心ではなく、私心を捨てて、ただ、キリスト教の教えのままに大衆の面倒を見た」と。

創価学会も、同じである。何の野心もない。野心など、持ちようもない。ただただ「民衆を幸せにしよう」「日本の国を立派な文化国家にしよう」「世界を平和にしよう」という崇高な精神である。
仏教の真髄の教えの通りに、ひたすら実践してきたのが、学会員の皆さまである。御本仏の御精神と一体なのである。

広宣流布はやらねばならない。民衆を断じて幸福にしていくためには、前進する以外にない。難に耐え、苦労に耐え、一切に耐えながら、人を救っていく以外にない。これが仏法者の精神である。(拍手)
トインビー博士は、こう結論する。
「キリスト教が大衆の心を勝ち得たのは、要するに、どんな競争相手の宗教よりも、また、どんな政府や役所よりも、『大衆のために尽くした』からである」
つまり、当時の大衆にとっての唯一の希望は、キリスト教であった。政府でも、政治家でも、経済家でもなかった。こういう草創期の基盤の上に、キリスト教は次の時代に一気に広まり、「集団改宗の時代」を迎えていくのである。
″新しき世紀″への基盤を、こうやってつくったのである。
(以上の観点については、『トインビー著作集4 一歴史家の宗教観』深瀬基寛・山口朔約、社会思想社など参照)
創価学会は、大衆に尽くし抜いてきた。今も尽くしている。だから、大衆の心をつかんだ。これ以上に強いものはない。
「大衆に尽くしたから、勝った」――これが鉄則である。
諸君は、この歴史の教訓を、一生涯、忘れないでいただきたい。きょう、諸君に教えたいのは、この一点である。
【不惜身命の庶民こそ偉大】
だれがいちばん偉いのか。″大衆″である。″庶民″である。
お金もなく、学問もなく、けれども本当に立派な人間が庶民の中にいる。
広布の鑑である「熱原の三烈士」も、まさに庶民の中の庶民であった。
現実に、だれが本当に一生懸命、弘教しているか。だれが一心不乱に広宣流布へ働いているか。それは、ほとんどが婦人部であり、名もなき庶民である。

立派そうな肩書をもつ人間は、見栄を張って、捨て身で戦えない。戦えない人間の、どこが偉いのか。仏法の眼から見れば、人間の眼から見れば、何も偉くない。

それどころか、そういう人間は、尊き学会を自分のために手段にし、利用しようとさえする。恐ろしいことである。

戸田先生は、学会は、そういう人間を要職につけるなと厳しく遺言されたのである。