投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 3月 1日(火)08時35分0秒

SaySaySay様

>教義変更について、「先生は消極的な賛成なのだと思います」というのは、
①大石寺にある、これまで「大御本尊」と呼んでいた「弘安2年の御本尊」は、「大聖人ご真筆ではない」、あるいはその可能性大という前提でしょうか?
②それとも、そうではなくても、“消極的”賛成と思われるのでしょうか?<

大御本尊について、御書に記されていないことは小樽問答当時からもわかっていたことでしょう。それでも創価学会は創立以来、80年以上もの間、大御本尊を根本としてきました。それにも関わらず、今になって改め、覆すということは一体何を意味するか。それは、「論争の火種」をつくるということになります。論争の火種は、不必要に会員を苦しめる結果となることはわかりきっていることです。先生は、会員の幸福を第一としていますので、たとえ教義の問題であろうと、結果的に会員が苦しむことになれば、そこには価値がないと考えるのではないでしょうか。

論争の火種となり、創価学会の歴史そのものを見直し、訂正をせざるを得なくなることは、とてつもないエネルギーを要します。現在、先生は後進に道を譲られており、言うならばそれは、師の時代から弟子の時代へのバトンタッチです。善くも悪くも、弟子がやろうとしていることを頭ごなしに「ダメだ」ということはされないと思います。戸田先生が晩年、人事権を手放し、「みなで仲良くやっていけ」とすべてを託されたのと同様、池田先生も、たとえ失敗しようとも、すべてを弟子にやらせるのだと思います。何事も自分の責任でやってみなければその重みはわからない。誰かに守られている内は、厳しさを体感することはできないからです。

本来は、大御本尊の論議は「棚上げ」が妥当なのだと思います。結論を出さないほうがいい問題も世の中にはあります。そこを一歩踏み込み、前に進めることがプラスになるとは限らない。それだけ難しい問題なのです。それでも弟子たちがやるのであれば、水を差すことはせず見守るという意味で賛成。それには条件があり、「会員が苦しまないように手を打つこと」が前提といったところだと思います。

日蓮仏法は、心こそ大切なれの宗教です、心とは、「信心」です。信心がなければ、御本尊はただの紙であり、そこには功徳も価値も生じることはありません。先生の考えは、御本尊ありきではなく、信心ありきであると思いますし、それが日蓮仏法でしょう。そして、宗門がいかに謗法の団体になったといっても、大御本尊を受持の対象から除外することは行き過ぎであったと思います。わざわざ除外する必要はなかったのではないか。御本尊第一から、信心第一への転換というところで、止めておくべきだったように感じます。

大御本尊に連なることは、「正しい信心」の象徴だったからこそ、学会は根本としてきたのではないか。現在は、大御本尊に連なることが、正しい信心の象徴とは必ずしも言えない状況となってしまった。だからといってまぎれもなく本物の本尊であるから、受持の対象であることには変わりはありません。御本尊の問題は、全会員に関わることなので、誤解を招いたりすること自体が危険であり、敗北です。とにかくほとんどの学会員の心情は、「よくわからない」が実際のところでしょう。