投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 2月29日(月)22時00分20秒

初期大城様

>もし先生のご意志、ご承認があった場合ここでの議論や意見がオセロのようにひっくり返ってしまうと思うのですが…<

問題の本質は、先生の意志や承認があるかないかではありませんので、オセロのようにひっくり返ることはありません。先生は、人間革命を改訂するにあたり、「熟慮」されている。ここが大事なのです。当時、私も先生が、「少し考えさせてくれないか」と、思い悩まれていたことを幹部から聞きました。そこには色んな思いがあったことでしょう。それは先生にしかわからない次元のものなのかもしれません。人間革命の一部、表現や表記を変えることでもそれだけ悩まれる問題です。弟子ならばこの先生の心を知るべきです。況や、御本尊に関する変更は、どれだけ熟慮しても足りない案件であることは、容易に想像できることでしょう。

問題は、当事者である教学部も驚愕するほどの、結論ありきの強行姿勢。なんでこのようなことになってしまったのか。「熟慮」の姿勢があったのならば、教学部にも相談するのが筋であるし、それが逆に、全然足並みが揃わない状況で事を進めてしまった。それがどれだけ危険なことか。危険という意識すらないのかもしれませんが、それ自体が暴走に等しい。そこに先生の「熟慮」の想いというものが、執行部には見られなかった。呼吸のズレが露わとなり、師敵対疑惑へとつながっているわけです。

権力者の狂いはいつでも、苦言を呈する者を遠ざけるところからはじまる。これが歴史の常というものです。今の創価学会中枢は、自分たちに賛同する者だけを重宝し、苦言を呈するものを遠ざけてはいないか。対話ではなく、はじめから結論が決まった状態でアプローチしてきていないか。結論が決まっているのであれば、それは対話ではありません。そういう姿勢に対して、宿坊の掲示板では「おかしいのではないか」と議論されていて、さらにそれは、54年の一念とリンクしているからこそ、取り上げているわけです。

結論ありきの熟慮(対話)なき体質は恐ろしい。対話の宗教であるのに対話がなされておらず、一方的な姿勢。これは学会中枢のみならず、現場でもよく見られる光景です。悪しき組織主義、官僚主義が仏法をダメにし、先生を会長から引きずりおろした。この事実から目を背けず、問題意識を持っていくこと。その先にしか創価学会の未来はないのです。