投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 2月24日(水)10時05分35秒

草創期の者様

>組織における大聖人の位置、又は大聖人とはどういう存在なんでしょうか。
先生と大聖人との関係はどの様に考えられますか。又、皆様にとって広宣流布とは何でしょうか。
何を広める事を広宣流布というのでしょうか。<

大聖人は根源の師であり、日蓮仏法そのものです。三代会長は、日蓮仏法の実践における指導者であり、師です。三証にあてはめるならば、御書が文証となります。そして、理証は道理であり、人としての正しい生き方ですので、その模範を示しているのが三代会長です。三代会長とは人としての正しい生き方を教えてくれているからこそ、「先生」と呼び、言うならば、「人生の師匠」という位置づけでしょう。信心とは御書を根本とし、正しい生き方、振る舞いがあってこそ、真の現証が生じる。もちろん現証は最重要ですが、現証のみをもって正しい信心とするのは外道の論理であり、大聖人はこれを「利根と通力とにはよるべからず」(P16)と、喝破されています。

信心といっても御本尊に題目を唱えていればいいのではなく、「正しい信心」でなければなりません。正しい信心とは三証が揃っていることです。人としての正しい道を教えてくれる指導者こそが三代会長ですので、就くべき人を間違えると、いかに信心をしても道理に反するので、三証は揃いません。創価学会は、正しい指導者を師と定めているので、仏意仏勅足り得ているわけです、だからこそ先生の指導を大事にし、その軌道から外れないようにしていくことが「三代会長を守る」ことになり、広宣流布のための最重要事項なわけです。

さて、それでは広宣流布とは一体何か。広義の意味においては、「一切衆生を仏の境涯にすること」です。それは、終わりなき戦いを意味します。狭義の意味においては、「自身と回りの人を仏の境涯にすること」と定義付けることができます。その理由は、六次の隔たりといって、すべての人は六ステップ以内で繋がっているという仮説があります。即ち、知り合いの知り合いの知り合いの知り合いの知り合いの知り合いで全世界は繋がるという論理です。一人の人間が知り合える人の数はせいぜい数百人から数千人に過ぎず、人類70億人からしたら微々たるものです。さらに、深い話を出来る人はそこから絞られ、数十人くらいとなります。しかし、世界は六ステップでつながるので、自身の回りの数十人を大切にし、仏の境涯にしていくことが一切衆生を仏の境涯にすることに繋がります。目の前の一人には、とてつもない可能性と拡がりがあるのです。

広宣流布とは足下にあり、どこか遠くの人を大切にするのではありません。自分の目の前の家族、友人、知人を大事にし、仏法は語っていくこと。それこそが広宣流布の実態であり、正体と言えましょう。三代会長を師と定めている創価学会に三証は具わり、ここが同じ南無妙法蓮華経を唱えている他教団との違いです。創価学会においても、三代会長を蔑にし、軽んじていくと、他教団と変わらなくなります。それを邪教といいます。もしも、「会長が上、会員が下」となった場合は、そんな教えは先生の指導(人としての道)とは違うので、邪教です。そうならないためにも、おかしいものはおかしいと言い、是正していかなければなりません。

いかに創価学会の邪教化を食い止めていくかが、本門の池田門下の戦いです。創価学会だから無条件に仏意仏勅足り得ているわけではなく、激しい戦いなのです。この危機感がなければ、魔王に敗れます。邪教化は、傲慢な幹部の振る舞いとなってあらわれ、侵食されていきます。それに対して警鐘を鳴らしていくのが宿坊の掲示板の役割といったところではないでしょうか。