投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年 2月22日(月)22時37分19秒

虹と創価家族様

>師恩を大切にした、人間らしい人生でありたいものです。<

師恩こそが最も崇高な恩であり、いかに師恩に報いていくかが弟子を名乗る者の重大なテーマです。とくに創価学会は「師弟不二」を標榜しているので、師恩を意識しているか否かが、人材として大きく成長できるかどうかが決定すると言っても過言ではありません。また、反逆者の共通点は恩知らずであり、それは人間としての最低の生き方を意味します。

師恩に報いるということを根幹にしていれば、54年は違った結果となったかもしれません。師は、どれだけ命を削って会員を励まし、広宣流布のために尽力されたか。あろうことか、弟子が、広宣流布の大功労者を会長の座から引きずりおろし、足蹴にした。これまさに忘恩であり、最低である。師恩に報いようとする気持ちが欠片もない証拠である。

池田先生
「いつ殺されるか。病気になるか。自殺するか。そうした、誰人も想像できえない極限の魔との戦いであった」

先生の想像を絶する苦悩と魔との戦いによって、今日の創価学会ができあがったことを忘れてはならない。決して一朝一夕にできるものではなく、とてつもない忍耐と、血と汗と涙の結晶であり、決して簡単に考えてはならない。自分が苦労をすればするほど、悩めば悩むほど、師恩を感じることができ、その戦いのすごさに涙する。逆に、たいして苦労もなく、若いうちから偉くなり、学会員の人の好さに甘え、傲慢になっていくと、師恩を感じられなくなり、そこから狂っていく。自分の力で偉くなったと勘違いした人間が道を踏み外し、師の心を死していく。これ、実に恐ろしいことである。

今問うべきことは、師恩を感じられている自分かどうかです。惰性の信心もまた、師恩を忘れてしまう。師恩に報いる人生を歩むのか、それともそんなの関係ないと、自分中心の人生を歩むのか。同じ日蓮仏法を持っていたとしても、どちらの一念なのか。一度、師恩に報いる人生を歩むと決めたのなら、そのために具体的に何をなしとげるのかを決め、戦いを起こす。それが自身の最高の誉れの歴史となり、随自意の生き方と言えましょう。

御観念文においても、三代会長への報恩感謝をしています。これもまた師恩であり、身口意相応してこそ意味がある。報恩感謝をするのであれば、その恩にいかに報いていくかまで考え、実行していかなければ、ただの観念で終わってしまう。浅きを去って深きに就くのが信心でありますから、観念だけで終わらせてしまうのは底が浅い。何よりも師恩を大事にし、報いていこうという一念に功徳も具わります。

ゲーテ
「忘恩は一種の弱点である。有能な人で忘恩だったというのを、私はまだ見たことがない。」

どうか権力の魔性に魅入られ、畜生のような恩知らずの人間にはならないよう、革命的警戒心で用心していきたいものです。