投稿者:ジョーカー 投稿日:2014年12月26日(金)23時37分46秒  

御書 P1173
趣意「もし、あなた(四条金吾)の罪が深くて地獄に堕ちるようなことがあれば、日蓮を仏になれと、どんなに釈迦仏がいざなわれようとも、従うことはないであろう。あなたと一緒に地獄に入ろう。日蓮とあなたと共に地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も必ずや地獄におられるにちがいない」

これが仏の心であり、師の心でもあります
師弟関係の深淵さに関しては、私には軽々しく論じることはできませんが、
きっとこのお手紙を読んだ四条金吾も、大聖人と同じ気持ちだったのではないでしょうか

「もしも大聖人が地獄に行かれるのならば、私も一緒に行きます」と

竜の口の法難で、まさに大聖人の首が斬られんとする時に、四条金吾は「ただいまなり」と、自決しようとした

このことに対して大聖人は
「いかなる世にも忘れることはできない」と称賛されている

もちろん生命尊厳の仏法では自決は御法度であり、許すべきことではありません
だけど、大聖人はそこには触れられず、四条金吾の一念を称賛されているわけです
これが人間学であり、仏法の世界なのではないでしょうか

54年の話にあてはめると、誰も先生側に立つ幹部はおらず、それは師と地獄を共にする弟子がいなかったことを意味するのではないでしょうか

先生側に立つということは、まわりの幹部や宗門を敵に回すということであり、
それは迫害に遭うこと必定
先生が打たれる杖の半分を自分が打たれることであり、
そこからは「安穏」は皆無になるわけです

波風立てず、穏便にすませたい
これもまた人間の心でしょう

それをかなぐり捨てた先に、深淵な師弟の世界があるのではないでしょうか

ではそれができるか否か
もしも獄につながれ、身体をのこぎりでギコギコやられたり、生爪はがされりしても、師についていけるか
私なら「ちょっと待って」となってしまうと思います

仏法上の師の資格というのは、現実に三類の強敵と戦っている人にこそあるものだと考えます。であるならば、弟子もまた現実に三類の強敵と戦ってこそ、本物の師弟の世界に入ることができるものだと思うのです

一方、仏法は万人成仏の法ですし、
一人も犠牲者を出さないことこそが法華経の精神そのものですので、「地獄」という言葉は極力控えたほうがよいでしょう

師弟を語るための方便だったとしても、
誤解や勘違いを生みやすいワードであることも付け加えておきます