投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2016年 1月28日(木)18時29分11秒   通報
「善知識」とは、本来、人を仏道に導き入れる″善因縁の知識″をいう。知識とは知人、友人の意味である。仏、菩薩、二乗、人天等を問わず、人を善に導き、仏道修行を行わせる、正直にして偽りなき「有徳」の者が善知識である。当然、人界の私どももまた、立派な善知識の働きとなる。

善知識の働きには、修行者を守って安穏に修行させ(外護)、また互いに切磋琢磨しあい(同行)、さらに仏法の正義を教えて善行へ向かわせる(教授)などがある。

すなわち「勤行をしましょう」「会合に行きましょう」「御書を拝読しましょう」等々、広宣流布の方へ、御本尊の方へ、妙法と成仏の方へと″指し導く″指導者の皆さま方こそ、尊き「有徳」の善知識なのである。

その反対が「悪知識」である。本日はそのくわしい意義は略させていただくが、一つだけ申し上げれば、たとえ信心している幹部であっても悪知識となる場合がある。

つまり、指導者が仏子を見下していばったり、ふざけ半分であったり、責任感がなく、いいかげんであったり、成長が止まっていたりしたら、そのもとにある人々の信心の成長をも邪魔してしまう。

純粋な後輩が伸び伸びと活躍し成長できない。それでは、あまりに無慈悲であり、かわいそうである。

こういう指導者の本質として、たとえ言葉は巧みであり、表面を飾ろうとも、心は保身と驕慢である。

その魂胆は、人々に自分を尊敬させ、人々の心を自分へと向かわせるところにある。

すなわち善知識が、友を「妙法」の方向へ向かわせるのとは対照的に、黒く卑しき心の悪知識は「自分」へと向かわしめるだけなのである。

「法」が中心ではなく、自分のずるがしこい「エゴ」が中心となる。この一点を鋭く見極めていかねばならない。悪知識に紛動されれば悪道へとおもむかざるをえないからだ。

また、こうした″虚飾の仮面″をかぶった信心なきリーダーは、時とともに、いつか広布の大道から逸脱し、姿を消していくものだ。これが大聖人在世の時代以来、変わらざる方程式であり、私の四十年間の経験的事実でもある。

池田大作全集69巻
豊島、台東、墨田、目黒区合同総会 (1987年12月12日)