2016年1月26日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月26日(火)08時58分35秒 通報 しかし、先生の精神性を中間幹部が伝達していくのでは、どうしてもその幹部の境涯が関係します。 こういう体制の中では、必ず特権意識を持つ幹部が生まれるのも事実です。 元教学部長であった原島嵩のように「親の功績」の七光りで周囲から特別扱いされ、 自身の宿業と苦難を乗り越えた体験を持たない人間は、決まって権威主義の奴隷になるものです。 会長辞任に追い込まれた池田先生の胸中は、どれほどのものだったのか想像もつきません。 第三代会長を守れなかった当時の執行部に「完全に失望」していた池田先生は、再び自ら道を開くしかなかったのです。 またこの時期は、全国各地の学会員も多数、横暴な僧侶に苦しめられてもいました。 もはや信ずるに足るのは、青年だけだったのではないでしょうか。 不思議にも会長辞任の一九七九(昭和五十四)年は「人材育成の年」をテーマに掲げ、 青年の育成に全力で取り組んでいた年でもあります。 会長辞任後、宗門から動きを封じられていた先生は、青年部に自主的な 御書・文段(日寛著)の本格的な研鑽を託し、先生は長編詩を詠んで、詩作を通じて日蓮仏法の宗教性を論じていきました。 その後、先生は様々な会合で記念のスピーチを開始します。 会長時代は堂々と会長指導ができたのですが、辞任以来、宗門がそれを許さなかったのです。 このスピーチは当初、電話回線を使って音声中継で主要会館に中継されました。 もちろん、編集なしのノーカットスピーチです。 引き続き学会は、人工衛星を使ったシステムを導入し、これによって今まで 記録映画やビデオでしか触れることのできなかった池田先生の姿と声に、全会員が直接触れられるようになったのです。 同時に「自分だけが先生の特別な指導を知っている」という傲慢な幹部の特権意識を完全に払拭することにもなりました。 全会員が直接、先生のスピーチを聴けることで、先生と会員の「師弟の絆」は 見違えるほど新鮮で、より強固なものになっていったのです。 しかし、時の到来とともに、こうしたことを苦々しい思いで見ていた人物が、時の貫首「日顕」です。 これが二回目の第二次宗門問題のはじまりです。 Tweet