投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月26日(火)08時57分50秒   通報
この“第六の相対(創価学会・日蓮正宗)”の闘争は、実は二回ありました。

一回目の始まりは、第一次宗門問題です。

しかしこの時は、学会最高幹部(執行部)と一部の公明党議員の「弟子の裏切り」で失敗しました。

そして昭和五十四年四月二十四日「会長辞任」という形で池田先生が全責任を取り、
師匠ただ一人が学会組織と学会員を厳護していただいたのです。

以来、会員の間では、この昭和五十四年四月二十四日を弟子が師匠を厳護できなかった「弟子敗北の日」と認識しています。

さて、正本堂が完成した翌年、学会は「教学の年」をテーマに掲げて教学運動を開始します。

日達の親衛隊を自負していた正信会や、当時、学会の顧問弁護士を務めていた反逆者の山崎正友が結託して、
学会分裂を画策していた「昭和五十二年・五十三年」も、二年続けて「教学の年」と掲げ、学会員は徹底して教学を学んでいきました。

さらに、一九七八年(昭和五十三年)の学会創立四十八周年の本部幹部会の席上、
池田先生は、二十一世紀までの「五年ごとの目標」を発表しています。

先生はただ一人、会員を守ろうと人知れず手を打ち続けていたのです。

これほどまでに教学を打ち込まなければならなかったということは、

学会組織を推進していく執行部や大幹部の“教学の未熟さ”が

「法」を基準にした論争や破折ができなかったからだと思います。

そもそも草創期の学会員の教学は、他宗派や他宗教との教義論争や折伏の場などで鍛えられてきました。
日蓮仏法の正当性を鮮明にし、体験に裏打ちされた教学で、邪義に対し徹底的に戦って学会組織の土台を作ってきたのです。

当時の学会員は、池田先生の指導を直接聞くということは環境的にも不可能でした。

そのため、代表幹部が池田先生の指導を聞き、その後各方面で伝達会が持たれ、
会員は、その会合に出席して幹部の指導を聞くことが一つの戦いでもあったのです。