投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月26日(火)08時57分1秒   通報
一九六四年(昭和三十九年)、大石寺に本門「大客殿」を建立寄進した学会は、引き続き「正本堂」の建立寄進に動きます。

当時、日本の仏教界のどの本山を探しても、大客殿に並ぶ“規模と質”を持っていた宗派はなく、
すでに大石寺は戦後の貧しい地方寺院の様相から一転して他宗もうらやむ伽藍を整え、多くの参詣者でにぎわっていました。

その規模をもしのぐ「正本堂」の建立は、戸田先生が遺言として池田先生に託していたものです。

一九六八年(昭和四十三年)に着工された正本堂は四年の歳月を費やして、一九七二年(昭和四十七年)十月に完成しました。
東西百五十メートル、南北三百三十メートル、高さ六十六メートルという巨大建築です。
完工式には各国の識者からの祝電が届き、在京の各国大使も多く列席しています。

日蓮正宗は戦後二十七年、戸田第二代会長が広宣流布への本格的な前進を開始してからわずか二十年で、
二十世紀最大の宗教建築としての「本門戒壇」を得て、名実ともに世界宗教の聖地に恥じない日本一の宗派になったのです。

池田先生は在家教団として、宗門外護の立場から「宗門にお仕えする」という道を選び、
些細なことも時の貫首であった「日達」と相談しながら、僧俗和合を第一義に事を進めていきました。

しかしだからと言って、創価学会は日蓮正宗に命じられたから広宣流布をやろうとしたのではありません。

あくまでも日蓮大聖人の遺命達成のためであり、一宗一派へのこだわりなどなかったと思います。

むしろその前進を妨げたのは、日蓮正宗の方だったのです。

その証拠に、牧口・戸田両先生の時代、宗門は広宣流布を掲げて進む学会の存在が、弾圧の原因になると考え、
自らに飛び火しないかとそればかり恐れて学会を切り捨てて謗法の限りをつくしていました。

壊滅状態にあった宗門に広宣流布の思いなど微塵もなく、学会が日蓮仏法の正当性を宗門に教え、覚醒させていったのです。

大聖人の精神に直結し、望んで法難の嵐のなかへ乗り出して弘教拡大に尽力し、
結果として宗門を反映させてきたのは創価学会です。

しかし皮肉な事に「正本堂」が建立したのを境に、僧俗の間に亀裂が生じ始めていくのです。

いよいよ「第六の相対」の始まりです。