投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月25日(月)09時43分46秒   通報
戸田先生は自ら折伏や座談会の第一線で戦い、広布の活動を推進していきます。

一九四七年(昭和二十二年)から第六十四世貫主になった日昇(にっしょう)は、戸田先生の求めに応じて
「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の脇書きをしたためた広宣流布のための常住御本尊を創価学会に授与しています。

しかしこの時代は、宗門も創価学会も、まだまだ弱小教団で、世間的に見ても
「日蓮門流全般」の最大勢力は五老僧の流れを汲む「日朗」門流系の日蓮宗がその地位を誇っていました。

その代表格である身延山久遠寺やその他の日蓮門流は、釈尊を根本の“仏”と主張し、
大聖人を“日蓮大菩薩”などとして釈尊の下に位置付けるのに対して、

日興門流は「日蓮大聖人」こそが末法という時代の根源的「御本仏」だと見ます。

やがて五老僧門流各派は「南無妙法蓮華経」の題目は唱えても、釈迦像とともに鬼子母神や稲荷を拝み、
加持祈祷や荒行を売りものにするなど、日蓮教学とは大きくかけ離れた信仰になっていました。

先ほども述べましたが、五老僧の一人である「日朗」自身が日蓮教学を理解していないのに、
日朗を中心とする門流の弟子たちが日蓮教学を理解できるはずがありません。

それにも関わらず、日蓮宗の代表格である身延山久遠寺は日蓮教学の正統性を主張して一歩も譲りませんでした。

その邪義と化した日蓮宗と真っ向から法論対決し、日寛の出現以来、

濁流に流されていた宗門を再び日蓮教学の「正統継承者」という清流にもどした出来事が、
戸田先生の指揮のもとで行われた一九五五年(昭和三十年)三月の「小樽問答」なのです。

この時の学会側の司会者は、後の第三代会長・池田先生です。
身延山久遠寺はこの小樽問答で創価学会に「完全敗北」しています。

これによって、第六の相対である「五(五老僧)・一(日興)」の相対に、完全決着の終止符が打たれたのです。