投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月25日(月)09時42分53秒   通報
一九四一年(昭和十六年)十二月八日、日本は米英に宣戦布告し、太平洋戦争が勃発します。

大石寺の時の貫首は「日恭(にっきょう)」です。

軍国化した政府は、国家神道の下に宗教統制する目的で「治安維持法」が改定され、
神宮の尊厳を冒涜することが刑罰の対象となり、宗教弾圧の口実とされました。

国家権力は日蓮正宗に対しても大聖人の御書のなかに、天皇や神に対する不敬があるとして削除を求めてきました。
この時、国家権力の弾圧におびえた日蓮正宗は、御書の関連箇所を削除することで国家権力と神道に屈服し、日蓮教学の正義を捨てたのです。

当時の日本には約十六万の宗教団体がありましたが、
その大半は軍部の台頭とともに積極的に戦争協力への道を選び、あるいは弾圧を恐れて声をひそめました。

宗教者としての正義を貫いた教団は数えるほどしかなく、
しかも最高指導者が逮捕されたところは、創価教育学会を入れても数教団です。

そして最高指導者として最後まで軍国主義に対抗し、信念を曲げずに殉教したのは、

創価教育学会会長・牧口常三郎先生ただ一人だったのです。
初代会長の獄死という「殉教」を通して、創価学会は日蓮仏法の正統として、その法脈を継承しました。

法門や御本尊を護持しながらも、広宣流布への精神を忘れていた日蓮正宗を、在家信徒である創価学会が
「宗祖・日蓮大聖人」の精神に立ち返らせようとしたのです。

日蓮教学の正統を継承する門流とはいえ、江戸幕府の寺請制度に組み込まれ、
何が正義かもわからなくなっていた日蓮正宗に、在家教団である創価学会が

「封印」されていた日蓮教学に猛烈な勢いで肉薄し、

七百年来だれも本気で考えなかった「世界広宣流布」を口にして、折伏を開始したことに、
日蓮正宗僧侶の面目を潰されたと感じ、侮辱心と警戒心をあおられた者がいたとしても不思議ではないと思います。

戦後、生きて獄門を出た戸田先生が牧口先生に代わって創価教育学会の名称を「創価学会」と改め、宗教革命に立ち上がりました。