投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月24日(日)09時22分38秒   通報
話をもどします。

遺誡置文を著した直後の同年二月七日、師弟不二の道を貫いた日興は八十八歳(米寿)の尊い生涯を終えました。

日興が亡くなった同じ年の五月二十二日、鎌倉の北条氏が新田義貞軍に滅ぼされ鎌倉幕府が滅亡し、
後醍醐天皇が京に入って朝廷に権力が戻ります。

それを好機と見た日目は、日興亡き後、日目が師(日興)の跡を継ぎますが、
朝廷を諫暁して広宣流布を実現せんと天皇への申状をしたため、同年十一月のはじめに弟子の日尊・日郷を供にして自ら京へ向かいます。

その途上、日目は雪と寒さと疲れのため、美濃国垂井(岐阜県不破群垂井町)で病に倒れ、
十一月十五日、死身弘法の尊い生涯を閉じるのです。

日目・七十四歳の時でした。

日目が亡くなった直後、日興門流では「第四世」の継承の問題をめぐって激しい対立が起こり分裂していきます。

そして日興門流の弟子たちは、先師(日興)が五老僧との攻防戦のなかで築き上げた日蓮教学を厳護するどころか、
研鑽を怠り理解できずに保身と私利私欲に溺れて、日興門流も五老僧の門流と同じく濁流に流されていきました。

しかし“第五の種脱相対”を正しく伝え、日蓮教学の正統性を主張した継承者を“五・一相対”すれば、

それは「日興上人」ただ一人です。

そしてそれを内外に証明し、決定打を打った“人物”が、日興門流の末弟であった「大石寺日寛」と、

在家教団であった創価学会「初代会長牧口先生・第二第会長戸田先生」なのです。

これが第六(五・一)の相対です。

なぜそういえるのか――今度はそれを見ていきたいと思います。