投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月23日(土)09時04分10秒   通報
日興は晩年、五老僧のような破法の僧を出さないために門下へ与えた二十六箇条の遺誡(日興遺誡置文)を著します。

そこには

「一、時の貫首為りと雖も、仏法に相違して己義を構えば、之を用う可からざる事」(一六一八頁)

と記されました。

日興は歴代の後継者を「貫首(住職の代表)」と表現し、
しかもその貫首(法主)はまちがいを起こす可能性があることを示唆しています。

たとえ時の貫首(法主)であっても、仏法に相違して勝手な教義を立てた場合には、用いてはならないと厳しく戒めたのです。

つまり、師匠の打ち立てた「事の一念三千の法門」を守り、弘めることが最も肝心であり
「人法一箇の御本尊根本」「御書根本」「広宣流布根本」こそが、日興の根本精神だということです。

そしてそのことを理解していなかったのが五老僧です。

たとえば、五老僧の一人である「日朗」が
正和元年(一三一二年)二月三日に書写した漫荼羅本尊(京都本能寺所蔵)を見れば
「人法一箇の御本尊」を理解していないことは明らかです。

正和元年といえば大聖人滅後三十年です。
日朗は本尊首題を「南無妙法蓮華経 日朗」と記し、左脇に「南無日蓮聖人」と書いています。

御書には「此の曼陀羅は文字は“五字七字”にて候へども三世の諸仏の御師」(一三〇五頁)、
また「妙法蓮華経の“五字七字”を弘むる」(一三六一頁)とあります。

“人法一箇”を上記二つの御文で説明すれば、五字は「妙法蓮華経」で“法”を表し、
七字は「妙法蓮華経 日蓮」で“人法一箇”を表すと解釈することも可能です。

末法の衆生は何に「南無(帰命)」して即身成仏するのかというと、七字の「妙法蓮華経 日蓮」です。

これが種脱相対で説明した大聖人の「事の一念三千の法門」ではなかったのか――。

末法の衆生に授与する“人法一箇の本尊”の首題は「南無妙法蓮華経 日蓮」の二つではなく、これで一つ(ワンパック)なのです。

しかし、日朗の書写した本尊はそうではない。これではまるで「根源の法」はもともと宇宙に実在しているのだから、
師匠なんて脇に置いてもよいという発想であり、この日朗書写本尊自体に日朗の境涯が表れています。

だから日蓮教学を理解していないといえるわけです。
・・・つづく