投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月23日(土)09時03分22秒   通報
“日興遺誡置文”には

「一、当門流に於ては御書を心肝に染め、極理を師伝して若し間(ひま)有らば、台家(天台)を聞く可き事」(一六一八頁)

と訴えています。

いずれにしても、大聖人滅後の弟子たちにとって、各地に散在している御書の収集は最重要の責務であったはずです。
しかし、その収集の歴史にさえも日興と五老僧の対立がありました。
さらにその後に起こって来る日蓮教団の分裂なども加わり、御書の収集は決して順調に行ったわけではありません。
この御書の収集・編纂に際しても、先頭に立って尽力したのが、日興と富木常忍だったのでしょう。

その労作業があってこそ現在、日蓮大聖人の真蹟「御書一九八編」、「図録二十三編」、「断簡三四六編」が残っているのです。

大聖人入滅の時、葬儀に参列した弟子群像の氏名が記された
「宗祖御遷化記録」などの文献を見ると、そこには二十八人の弟子が挙げられています。

文献に記された弟子たちは、大聖人の晩年の教団を支えてきた群像ともいえます。
その弟子の氏名をみれば、五老僧を除いて五老僧が折伏した弟子は一人もいません。

その反対に日興の弟子・孫弟子が圧倒的に多いことがわかります。
つまり、大聖人ご在世においても、滅後においても、日蓮教団を支えていた中核はまちがいなく日興系列であったのです。
折伏の師匠であった大聖人の実践を、身をもって実行し結果を出していった日興の功績は、
五老僧も認めざるを得ない峻厳な事実であったし、なにより大聖人自身がそのことをもっとも理解していたでしょう。

そこには折伏の範を“証明”した「日蓮日興」という侵すことのできない「師弟不二」の系譜が厳然と存在しています。

“日興門流”と“五老僧の門流”と最大に違う点は、
師匠の遺文を「御書」と命名し「末法の経典」と位置付けたことと、師匠を「本仏」と明確に位置付けたことです。