2016年1月22日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月22日(金)10時43分49秒 通報 日興は後に「(五老僧は師匠の)お墓を捨ててしまったと思われる。師を捨ててはならないという法門を立てながら、 たちまち本師である師匠を捨ててしまったことは世間から批判されてもしかたがないことである」(美作房御返事)と嘆かれています。 身延の地頭(波木井実長)は、日興が身延に入った時には 「大聖人が再び入山されたようにうれしく思います」とまで喜んでいましたが、 弘安八年ごろに日向が身延へ登ってきて学頭に任じられると、日向の影響を受けるようになり数々の謗法を犯すようになります。 要するに、五老僧たちは師匠の教えに背いて師敵対し、反逆していったのです。 五人のうち、日昭・日朗にとっては、日興は後輩であり、 日向・日頂にとっては先輩でしたが“同格”だという思いあがりがあり、 日興のもとにつくことを嫌う感情が強かったのだろうと思われます。 また日持は、日興の弟子から抜擢されたのですが、 自分は師匠の直弟子なのだという思いあがりがあったのではないでしょうか。 さらに、鎌倉に住む日昭・日朗は、幕府からの迫害を受けて寺院を破壊されようとした時に、 天台宗を行じて幕府のために祈祷をするという申状を提出して難を逃れています。 彼らは難を恐れ、我が身の安穏のために権力におもねり退転していったのです。 もともと五老僧は“日蓮教学”に対する理解が浅く信心も弱かったために、 師匠が天台の流れをくんで法華経を弘通しているものと思っていたのです。 そのため「日蓮聖人の法門は天台宗なり」と述べ、自分たちは「天台沙門である」と名乗り、 弟子たちを比叡山で受戒させても平気でした。 五老僧は大聖人を「師匠」とは思っていても「本仏」とは信じていなかったのです。 ・・・つづく Tweet