投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月22日(金)10時43分10秒   通報
大聖人は入滅される直前の十月八日に“日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持”の六人を「本弟子(六老僧)」と定めます。
ただし「不次第(順不同)」と注記されていて、この順序は入門した順であって後継者の序列を表したものではありません。

この時期、日昭・日朗は「鎌倉(鎌倉市)」、日向は「上総国藻原(千葉県茂原市)」、
日頂は「下総真間(千葉県市川市)」、日持は「駿河国富士群(静岡県富士宮市)」にいて、
その地域で門下の中心者として弘教や指導にあたっていました。

「日蓮亡き後、この六人が異体同心の団結で、各方面の仏法指導者として広布の大願を達成していきなさい」という大聖人の心だったと思います。

十月十三日、入滅した大聖人は荼毘にふされ、遺骨は日興によって身延の墓所に納められました。

そして、百か日忌を終えた翌年の一月末に日興が門下一同と相談し、
主な弟子十八人が、師匠の墓所を交代で守護する制度(墓輪番)を定めています。

六老僧は一人で一ヶ月、それ以外は二人で一ヶ月ずつ交代で墓所を守ることを定めたものですが、
十八人のうち、九人(日位・日法・越前公・日地・日持・日目・日秀・日弁・日華)は日興の弟子か孫弟子でした。

これは日興門下が主要な弟子の半数を占めていたことになります。

やがて六老僧はそれぞれの居住地へ帰っていきましたが、その時、大聖人が「墓所の側に安置しておくように」と遺言した
“注・法華経(大聖人が法華経に注をつけられたもの)”を日昭が持ち帰り、

“釈尊の一体像(伊豆流罪時に伊東の地頭から大聖人に供養された随身仏)”を日朗が勝手に持ち去ってしまったのです。

日昭・日朗はその後、墓輪番も守ろうとしないばかりか、師匠の三回忌を池上邸で行い、二度と身延へは戻りませんでした。