投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月22日(金)10時42分24秒   通報
大聖人は“五義”の一つである「教」を弟子たちに教えるために五重の相対を用いて、

その相違を詳細に語り、
像法時代に現れた天台の“理の一念三千”と、
大聖人の“事の一念三千”の質の違い(本迹相対)を表明し、

釈尊の文上脱益仏法(釈尊の発迹顕本)と、大聖人の文底下種仏法(日蓮の発迹顕本)を明確に立て分け、

開目抄・観心本尊抄・撰時抄で「教法流布の先後」を通し、
事の一念三千の法門(三大秘法の南無妙法蓮華経)こそが、末法の衆生を救済する最高の教えであると訴えました。

日蓮大聖人の末代の弟子にしてみれば、師匠が「日蓮の法門は第三の法門である」(九八一頁)と
言いきっている以上、種脱相対が日蓮仏法の一切の根本であるはずです。

しかし大聖人滅後、高僧(六老僧)の弟子たちは師匠の法門を理解できずに我見の教義に固執し、分裂していきました。

釈尊の弟子も然り、天台の弟子も然り、伝教の弟子も然り、大聖人の弟子もまた然りです。

この歴史的事実から明確に見えてくるものは、宗教批判の原理である相対論は永遠に続くものだと言えるし、
続けなければ日蓮仏法を未来永劫に伝持していくことは不可能です。

もっといえば、教団という枠を超え、人間に焦点を当てて考えていけば、誰が師匠の法門を継承し、
誰が師匠の法門を体現して、師匠の遺命である「広宣流布」を現実のものとしているかを検証していく必要があると思います。

そうすることによって、さらに日蓮教学の純度が高まり、後世の弟子に伝持していけます。

またその一方で、宗派の教義や主張通りの結果が、生活や社会にどう現れるかということが「文理」以上に問題となります。

宗教とは本来、観念的・内面的なものだけではなく、
善かれ悪しかれ人々の生活や人生、また社会の在り方に重大な影響を及ぼすものです。

その現実の結果が、宗教の「勝劣・浅深」を判断する基準となります。

大聖人は「日蓮仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず、又道理・証文よりも現証にはすぎず」(一四六八頁)と述べられ、
文証・理証以上に現証を重視しました。

この意味から、第二章では相対論を応用展開して、大聖人滅後から現在に至るまでの宗教の相対を考えていきたいと思います。