投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月16日(土)08時59分56秒   通報
ではなぜ、大聖人は「文上の義」によって「文底の義」を拾い出すことができたのでしょうか。

今度はそれを考えてみましょう。

まず結論からいうと“文上の義”から“文底の義”を拾い出した理由は、

大聖人が法華経を理論上で解釈しただけでなく、法華経をわが身で体験(身読)し、
人生最大の法難である竜口・頸の座で発迹顕本したからです。

釈尊(文上の義)の発迹顕本は、久遠とはいえ「五百塵点劫」の成道が一切の根本であり、それが釈尊の本地です。

これに対して、大聖人(文底の義)の発迹顕本は、

五百塵点劫よりもっと前の「久遠元初」が一切の根本で、これが大聖人の真の本地であり、
その身そのままの姿で、久遠元初(根源の法)を体現したのです。

いわゆる「直達正観(即身成仏)」といわれるものです。

釈尊を仏たらしめた「根源の法」が久遠元初の南無妙法蓮華経であると覚知し、
大聖人の身に涌現(一体)して、一人の人格者として顕れた――。

久遠元初の「主師親の三徳」を体得し、その境涯で文上の義を見れば、
その文底には厳然と“三大秘法の義”があると見たのです。

大聖人は“直達正観”した事の一念三千たる南無妙法蓮華経を
末法の衆生を救済するための「本尊」として図顕し

「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。
当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(一三三九頁)と師子吼しました。

よって末法の衆生は、その御本尊を受持し自行化他の唱題行に励むだけで「即身成仏」できる、

というのが日蓮教学の結論なのです。
・・・つづく