投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月16日(土)08時59分8秒   通報
大聖人は

「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る。
爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり、但真実の依文判義は本門に限るべし」
(一二七四頁)と述べています。

この御文は天台の著した十章からなる“摩訶止観”の
正しいとらえ方を示した大聖人の著作“十章抄”の文なのですが、

この御文の意味は、

確かに天台大師は「一念三千の法門」を法華経方便品(迹門)の十如実相から導き出して立てたが、
その一念三千の義(思想・法理)は本門によっていると述べます。

そこから大聖人は、
爾前経の経文はより次元の高い法華経迹門の義(思想・法理)によって解釈し(依義判文)、
法華経迹門の経文はそれよりさらに次元の高い法華経本門の義(思想・法理)によって解釈しなければならない(依義判文)

と訴え、

経文自体がそのまま義(思想・法理)をあらわしているのは本門だけ(依文判義)であると結論しました。

そしてその本門寿量品(文上の義)を、大聖人はさらに一重深く立ち入り、
文底に秘沈されている「文底の義(事の一念三千)」を拾い出し、

末法の衆生のために “人法一箇の南無妙法蓮華経”である「本尊」を顕します。

大聖人がなぜ

「経文に明ならんを用いよ。文証無からんをば捨てよとなり」(四八二頁)といわれて
経文上の明確な根拠のある教義を用いるべきであり、経典によらない教えは用いてはならないと戒めたり

「文無く義無きは信受すべからず」(二一九頁)と天台の言葉を引いて
経典(文)も道理である義(思想・法理)もない教義を信じてはならない、と厳しく戒めるのかというと、

そもそも大聖人の“事の一念三千”の義によって法華経の文を解釈するといっても、
この“事の一念三千”の義は、法華経の文を超えたところ、すなわち「文底」に秘沈されているものです。

しかし、だからといってこの「文底の義」は法華経の文を離れたところにあるのではありません。

要するに、大聖人の“事の一念三千(三大秘法義)”は、大聖人が勝手に造ったものではなく、
釈尊も知り、ひいては三世の諸仏も天台も伝教も知っていたのです。

ただ、私たち凡夫が簡単に見透すことができないだけで、大聖人からすれば

本門寿量品の“文上の義”によって“文”を解釈するとともに、
その“文”のなかに“文底の義”があることを明らかにすることができるのです。