投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月16日(土)08時58分21秒   通報
ここからは少しむずかしい言い方(表現)になるかも知れませんが、
この問題を解明するために、しっかり研鑽し思索していきましょう。

それでは始めます。

大聖人の思想を正確に理解していくうえで大事なことは二つあります。

一つは「依義判文と依文判義」、もう一つは「相待妙と絶待妙」です。

まず、依義判文とは“義に依って文を判ずる”と読み、義によって文を解釈するという意味です。
それに対して、依文判義とは“文に依って義を判ずる”と読み、経文に説かれている文により、
仏の説いた真実の義を解釈するという意味です。

「義」は文によってあらわされる思想であり法理です。「文」は説かれた経文のことです。

これらを一般的に見た場合、
普通は“文と義”の関係は、文章(経文)によってその思想や法理があらわれるものです。

だから解釈する側にしてみれば、思想や法理は文章(経文)によって得られるのであり、
思想や法理によって文章(経文)を解釈するということは不可能なはずです。

しかし、よく考えてみると、人間はある文章(経文)に遭遇した場合、
それ以前にさまざまな人生経験や学問によって「義(思想・法理)」の会得に通じる概念をもっています。

だから自分が会得した「義」によって、その文章(経文)が何を意味しているかについては“考える”ことができるのです。

つまり、自分が会得した義によって文章(経文)を解釈するということを日常的に実践しているわけです。