投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月16日(土)08時57分39秒   通報
しかし「時」の重要性を示した“撰時抄”を読んでいると、ある疑問に突き当たります。

その疑問とは、撰時抄に

「仏滅後に迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・乃至天台・伝教の
いまだ弘通しましまさぬ“最大の深密の正法”経文の面に現前なり」(二七二頁)とあります。

これは仏の滅後において、末法にいたる二千余年の間にさまざまな仏法流布の指導者が数多く輩出されたが、
彼らがいまだ弘通していない最大の深密の正法(三大秘法)が経文上に現前と説かれているという意味ですが、

開目抄には「一念三千は文底秘沈」と語っているのに、撰時抄では「三大秘法は文上に現前」と説いています。

“一念三千”と“三大秘法”は同一の法体を示したものですが、

なぜ、一方では「文底」といい、他方では「文上」といわれたのでしょうか。

さらに別の御書を読んでも同じ疑問が浮かんできます。

たとえば
「今末法に入りぬりば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(一五四六頁)
と述べられており、妙法以外の一切を否定しています。

ところが、撰時抄の上記の文は法華経を肯定して用いる立場を表明している。
一方では否定し、他方では肯定するという二つの相反する考え方が、なぜ御書のなかで示されているのでしょうか。

大聖人の思想を正確に理解するうえで、この部分の解明は避けては通れない問題だと思う。

なぜなら、池田先生が亡くなったあと、退転者や反逆者、また二流三流の評論家や学者たちが

「日蓮の御書や池田名誉会長の指導には二つの相反する考え方があり、
自語相違も甚だしく哲学的に見ても一貫性がない。そんなものを信じているから不幸になるんだ」と、

一つひとつ自語相違の文証を出されて日蓮仏法も池田思想も完全否定されたら、皆さんならどう応戦しますか――。