投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月15日(金)09時14分41秒   通報
大聖人は釈尊が修行した根源の法が「事の一念三千(三大秘法の南無妙法蓮華経)」であると明かされます。

大聖人のいう「事」とは“法と人”つまり“法体”そのものが「事」ということです。

御書には「自受用身とは一念三千なり・・・・一念三千即自受用身」(七五九頁)とあります。

この御文の意味は、根源の法を用いる身(自受用身)、これが大聖人の報身(心)にあらわれた、
何によってあらわれたのか――それは「久遠元初の発迹顕本」によってです。

“久遠元初の自受用報身(日蓮)”即“一念三千(法)”との表現は、
法と人は決して別々のものではなく、一体のもの不二のものということです。

大聖人は悪世末法の衆生を救済するために、まず、わが身に根源の法を涌現(発迹顕本)させ、
万人にその方途を示して、その明鏡を「人法一箇の本尊」として図顕し末法の衆生に残しました。

つまり、大聖人と南無妙法蓮華経の“人法”は、一体であり不二の関係である、
その大聖人の魂を「本尊」として図顕し、幸福の因果の法を万人に授与するということです。

これが大聖人の「事の一念三千」の法門です。

五重の相対のなかで、ここはもっとも大事なところなので、じっくり考えていきたいと思います。

大聖人は開目抄で

「この法華経の大事たる一念三千の法門は、ただ法華経の本門・寿量品の“文の底に沈め”られている。
竜樹・天親は知ってはいたがそれを拾い出していない。ただ天台大師のみがこれを内心に悟っていた(通解)」(一八九頁)と述べています。

これは法華経の大事たる一念三千の法門(根源の法)を明かされたのは、
後半十四品(本門)寿量品の“文の底”に明かされているという意味ですが、

ここで疑問に思うのは、方便品の十如実相で一念三千を明かし、
寿量品の三妙合論と久遠実成で、完全に一念三千を説き明かしているのに、
どうして寿量品の文上ではなく“文の底”つまり文底にあると表現したのでしょうか。

ちなみにこれを「文底秘沈」というのですが、大聖人の教義と諸宗の教義の最大の違いは、この種脱相対(文上・文底)にあります。