2016年1月15日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月15日(金)09時13分54秒 通報 これに対して、末法に生まれてくる衆生は過去に下種を受けたことがなく、成仏のための善根を持っていません。 簡単にいえば、釈尊と縁がない(眷属ではない)のです。 このことを知っていた釈尊は「地涌の菩薩」に末法の衆生救済を託します。 釈尊は遠い未来を洞察し、自身(釈尊)亡きあと、教法が弘まっていく道程を五つ(五箇の五百歳)に立て分け、 末法の衆生が登場する時代様相は、第五番目の「闘諍堅固・白法隠没」になった時だと述べます。 その特徴は、常に争いごとが絶えず人心も濁っていて、親が子を殺し、子が親を殺すという、 とんでもない人間が生まれてくる時代で、仏法があるといっても「全民衆を救済する」という仏法本来の精神が完全に廃れているのが末法です。 だから末法の衆生は脱益仏法では成仏できず、最初に下種をするところから始めなければならないのです。 これが大聖人の仏法が下種仏法といわれる所以です。 しかし、釈尊を仏にした「根源の法」といっても具体的に何を下種するのでしょう――。 そもそも法華経本門で、釈尊の久遠の発迹顕本(成道)が説かれたといっても、 それは結果の姿にすぎないばかりか、成仏の本因の法(根源の法)が明かされたわけではありません。 つまり釈尊自身が修行して成仏した「根源の法」が何であったのかについては、釈尊は何も明かしませんでした。 それを法華経本門寿量品から拾い出し、宇宙と生命に内在する「根源の法」をわが身に涌現し、 人類史上初めてその「法と人」が一体となって、その人格にあらわれ振る舞われた人間――それが発迹顕本の日蓮大聖人なのです。 Tweet