投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月15日(金)09時13分8秒   通報
次ぎの第五の相対が「種脱相対」です。

種脱相対とは、法華経本門には二つの“義”があり
「釈尊の本門(脱益仏法)文上」と「大聖人の本門(下種仏法)文底」の相対です。

なぜ釈尊の仏法が“脱益仏法”なのかというと、
まず釈尊は寿量品において「釈尊と衆生」の関係性を明らかにします。

釈尊の弟子たちは、師匠である釈尊が成道(発迹顕本)したのは、王位を捨てて出家し、
そこから菩薩の修行をしたのち、菩提樹の下で成道したと思っていました。

しかし釈尊はそうではなく
「実は久遠という過去世の遠い昔に私(釈尊)はすでに菩薩の修行を終え、発迹顕本して衆生に下種してきた。
それ以来、この娑婆世界で何回も何回も下種した衆生を私(釈尊)と同じように発迹顕本させ、
その功徳(境涯)を得させるために説法教化してきたのだ」と明かしたのです。

これが釈尊の法華経であり釈尊の出世の本懐です。

だから衆生側は、すでに下種されているのだから釈尊の振る舞いを通して学び、
釈尊と同じように発迹顕本すれば仏の境涯を得、人生を楽しく生きていけるのです。

仏が衆生に初めて法を教えることを「下種」といいます。
そして、仏の教化によって次第に衆生の機根が整うのを「熟」といい、最後に発迹顕本(成仏)することを「脱」といいます。

要するに、釈尊の仏法は釈尊が過去に下種し、何回も説法教化することによって
衆生の機根が成熟し最後に成仏させるための脱益の教えということです。