投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 1月14日(木)09時14分43秒   通報
さて、話を本迹相対にもどします。

大聖人は天台の「権実相対」からもう一重深く法華経を体系付け、
法華経二十八品からなる前半十四品を「迹門」、後半十四品を「本門」に立て分けて、
釈尊が本当に説きたかった「法」は後半十四品にあると位置付けました。

これが法華経における本門と迹門の相対です。

大聖人は
「本迹の相違は水火・天地の違目なり。例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり」(九九六頁)、

また
「この法華経には二つの大事がある。それは《迹門》理の一念三千と《本門》事の一念三千である(趣意)」(一八九頁~)と述べています。

なぜそういう発想になるのかというと、釈尊の真実の教えは「法華経」だけども、
前半十四品(迹門)の方便品には、諸法実相(十如実相)に約して一念三千を説き、二乗作仏は説いているが、

まだ釈尊が本当に言いたかった永遠(久遠実成)の生命観は明かしていない。

よって、仏の本地をあらわしていないから本有常住の生命の実体を説き明かしていないことになります。

さらに、大聖人は
「しかりといえどもいまだ発迹顕本せざればまことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、
水中の月を見るがごとし。根なし草の波の上に浮べるににたり」(一九七頁)と述べます。

つまり、まだ釈尊の発迹顕本を明かしていないから
生命の実体(一念三千)が不明で真実の一念三千もあらわれていない。

また、二乗が仏に成ると説かれたものの、
本有常住の生命が明かされていないから仏界の生命も九界の生命もその実体が不明である。

だから結局、二乗作仏も定まっていないことになる。

譬えていえば、一念三千を説いたけれどもそれは理(理論)の上で説いたにすぎないから
水面に浮かぶ月影のようなもので実体がない。

だから根なし草が波の上に浮かんでいるようにしっかり定まったことにはならない。

要するに、釈尊の本地である「久遠実成」が説かれていないから迹門十四品だけでは不完全なのだということです。