投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年12月27日(日)23時41分14秒   通報

よくわからないからこそ、「妙法」なのです。生命の不可思議さ、深淵さは、頭で量ることはできない。御書も、「わかった」は行き過ぎであり、逆に「わからない」も行き過ぎです。わかるのだけどわからないというのが実体というものです。戸田先生の悟達の体験も、同じような体験をした人以外は、「なんのこっちゃ」なのです。だからといって、そういった神秘体験がないかといえば、そういうわけではなく、厳然と存在します。生命の不可思議さは、時に人智を超え、アンビリ-バボーなものです。

そもそも題目を唱えると、幸せになれる、宿命転換できること自体、あまりにも不思議であり、よくわからないことです。題目を唱えることが、仏の悟りそのものであり、題目の実践の中にすべてが含まれます。自分が仏であることが生命でわかっているからこそ、題目を唱えることができますので、一切の心配はいらないのです。生命レベルでの体感はなされているので、あとはそれが事実(現実)の上で顕現されるかどうかです。

題目をあげた瞬間に、すでに完結しているわけですが、現実には苦しいまま、わからないままというのは秘妙方便です。秘妙方便の秘とは、「仏と仏のみが知っていること」で、妙とは「衆生の思議しがたい甚深の境地」という意味です。つまり、仏(御本尊)のみぞ知る不可思議の世界であり、凡夫の頭ではわからないということです。悩みは悩みのまま、ひたぶるに自行化他の信心に励んだ時に、凡夫そのままの身で、我が身が即、妙法の当体と覚知することができる。これが日蓮仏法です。

牧口先生は、「仏様の気持ちなどわかってたまるか」と言われました。祈っても中々悩みが解決しないこと、これもまた仏の御計らいであり、大慈悲です。凡夫からしたら、「そんなのどうでもいいから、早く解決してくれ」というのが本音でしょう。しかし、冬は必ず春となるとの御聖訓の通り、何があってもなくても題目をあげぬく中に、本物の信心は磨かれる。簡単に悩みが解決しないことこそが、仏のみぞ知る方便ということです。

信心と言っても、要は、自分が仏であることを体感することであり、それを成仏といいます。これを聞いて、「はい、そうですか」とならないからこそ体感世界なのです。もうすでに題目を唱えている時点で、生命レベルでの体感はなされているのにも関わらず、現実にはよくわからない。これぞまさに妙な世界です。