投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年12月29日(火)22時56分34秒   通報

南無妙法蓮華経とは、仏(本来)の自分を顕す言葉である。このことがわかる(体感)と、一体どうなるのか。御書には、「今までずっと、自分はつまらない存在だと思い込んでいた錯覚は、昨日の夢の如く、あとかたもなく消えてしまう」(P411趣意)とある。自分自身こそが尊い仏そのものであり、一切衆生もまた、尊い存在であることがわかる。それを体感する実践が、題目を唱えるということである。

現実に体感をすることは、それほど難しいことではない。題目を一時間ほどひたぶるに唱えると、歓喜の中の大歓喜の生命が湧いて来ることが実感できる。これ仏界である。題目を唱えることにより、自身の生命が御本尊に感応し、仏が顕れる。私は一日一時間は題目を唱えるので、このことを、毎日実感しています。多くの人が、日々体感していることだと思います。発心したての頃は、得も言えぬ歓喜が湧いてくる現象に、「なんじゃこりゃ」でした。

最近、私の回りでは、怒りのコントロールができていない人が目立ちます。内部・外部含め、怒りを制御できず、爆発させてしまう人が多いです。所謂、「アンガーマネジメント」が出来ずに、暴走してしまい、自身も回りも殺伐とし、関係をこじらせています。舎利弗が乞眼のバラモンの責めに堪えられなくて退転したのも、根底にあるのは「怒り」でしょう。即ち、「やってられるか」という憤怒であり、暴走です。怒りが根底だと、悪業を積み易い。法華経の行者が纏う忍辱の衣というのは、怒りをコントロールし、暴走しないということなのでしょう。

怒りは善悪に通じるもので、なくす必要はありませんが、大事なことは暴走しないということだと思います。悪に対する怒りは持たなければなりませんが、だからといって暴走したら、足元すくわれる。怒りを善へと転換する、智慧と忍耐が必要です。安易な怒りは、人を傷つけ、苦しめる。凡夫丸出しではなく、もっとも調和のとれた状態こそが仏です。最高の生命状態である仏を根本に生きるのが信仰者のいうものです。

人の根底というのは、業と深いかかわりがあるので、簡単に変わることはできない。傾向性に意識を向けて、余程の注意をしていかないと、すぐに元に戻ってしまう。どんなことであれ、変わるということは「意識する」ということが大事になります。題目を根本としながらも、ありとあらゆる手段を用いて、自身の傾向性に挑戦していくこと、これ人間革命の戦いです。生きるとは戦うということであり、信心もまた戦いです。

ともあれ、三毒溢れる娑婆世界で生きているのが我々です。知らず知らずの内に、環境に染まり、流されてしまいがちです。しかし、何があっても御本尊から離れないと決め、ひたぶるに題目を唱え、仏界を湧現させていくことが大事です。どこまでいっても題目が要であり、それがすべてです。題目というシンプルの中に答えがあるのです。

本年最後の同盟題目ということですので、しっかり便乗(なんだかんだでやった者勝ち)し、明年の勝利を祈ってまいりたいと思います。