投稿者:京都乃銀鬼 投稿日:2015年12月12日(土)11時45分27秒   通報 編集済
京都瓦版編集部に、ある人から寄稿文が寄せられた。再編集して全文を掲載する。

日蓮仏法を実践していく道程で、わが身に必ず現れてくるのが信心を止めさせようとする「魔」の存在だ。
五老僧は信心と教学無きがゆえに師匠亡き後、天台沙門と名乗り退転していった。

戸田先生の時代もまた、教学無きがゆえに大幹部二十余名が退転――。

昨今の学会員における教学力の低下は、将来の創価学会において深刻な問題に発展しそうだ。

青年部を先頭に壮婦の大半は、仏敵に対して満足に法論も対論も出来ず、

お高く決め込んで"相手にしない"というより"相手にできない"現状に陥っている。

第二次宗門問題が勃発した時、当時の青年たちは組織をあげて、顕正教学と破折教学を研鑽し、
その攻防戦の中で「宗門教学」の妄想神話を打破し正邪を明らかにしてきた。

後にその専門的な分野を担う「広宣部・教宣部」が創設されて、一般会員はほとんど破折教学を学ぶ機会が減っていくことになる。

そこからくる弊害は、現在の創価学会を見れば明らかだ。
何が間違っていて、何が正解なのかもわからず、善悪・正邪の基準が希薄になってしまっている。

草創期の創価学会はまだまだ小規模教団で、前も後ろも敵だらけだった。
そんな中を草創の先輩たちは教学を身に付け、立正佼成会・天理教などの宗派と法論し多くの庶民を救ってきた。

昭和35年5月3日、池田先生が第三代会長に就任してからの創価学会は、新たに
「座談会」と「教学」の二大方針を打ち出し"大民衆救済運動"を展開して怒涛の前進を開始。

その原動力になったものは、まぎれもなく座談会と教学に尽きる。

その意味で、学会の教学研鑽の歴史を「新・人間革命二巻」より紹介する。

「山本伸一が『座談会』と『教学』という二大方針を打ち出したのは、
既に会長就任が決定していた四月二十六日の本部幹部会のことであった。

偉大なる構築のためには、堅固な柱がなくてはならない。
彼は学会の新出発にあたり、まず柱となる運動の基本を決定したのである。
そして、会長に就任(*昭和三十五年)すると、教学研鑽の具体的な指針を提案し、決定をみた。
それは、五月十三日付けの『聖教新聞』の一面に発表された。

<一般会員>
『大白蓮華』『聖教新聞』『折伏経典』の熟読。

<助師>
右の目標に加えて、『方便品寿量品精解』と御書のなかで特に御消息文をマスターすること。

<講師>
右の目標に加えて、御書、特に十大部及び文段を完全にマスターすること。

<助教授>
右の目標に加えて、御書全編と『六巻抄』を全部勉強し、その奥底を極めておくこと。

<教授>
御書並びに『富士宗学要集』をマスター。

これを修得の基準とし、同志は、日々着実に研鑽に励んでいった。
その教学が同志の確信の裏づけとなり、民衆の覚醒をもたらし、
時代を創造する平和と文化の創価の大運動を巻き起こしていったのである」(29頁)
今は時代も状況もちがうとはいえ、池田先生は会長就任と同時に
全会員に剣豪の如き教学研鑽を訴え、草創の先輩たちはそれを実践し抜いてきた。

しかし、後に聖教新聞主幹であった元全国教学部長「原島嵩」の退転・反逆によって、
学会内に教学研鑽の重要性が薄らいでいくことになる。

その後、再び教学研鑽の波が高まったのは第二次宗門問題の時である。

この時、宗門教学の妄想神話を打破し正邪を明らかにした青年たちは、御書全編を通読して感じた事と思う。

御書が「古文」といいながら、いかにわかりやすい文章であるかということを。

御書と同時代に書かれた文章を比較してみると、
大聖人の文体が論理的整合性をたもちながら論文などにありがちな硬直さがない。

生き生きとしたわかりやすい文章で、しかも前提からいきなり結論を表明し、そこに至るまでの過程を
大胆に省略した叙述法には、軽快なスピード感とリズム感があり、経典のように声に出して読んでみると、心地よい語感がある。

そうすることによって、かえって読者の自発的な思索を促す工夫がこらされているようにも思える。

そして、読者の直感に訴える要素があることも、御書のわかりやすさを助けている。

今再び、学会内に教学研鑽の波が高まりつつある。

信心を根底に置いて、仏法用語などの知識を習得し、根気強く教学研鑽に挑戦していけば、

現代に生きる学会員は、必ず大聖人の心が理解できるはずだ――と。