2015年12月20日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年12月20日(日)08時58分29秒 通報 ――幹部も組織も史上最悪の状態であるからこそ、自身も学会も発迹顕本するチャンスが来ているのだ。 この現実を打破するには、今こそ弟子が「根本の師匠(大聖人)・三代の師匠」と同じ精神と心で、 地涌の菩薩の自覚に立ち、自分自身の胸中に“主師親の三徳”を涌現させねばならない――。 これが池田先生の指導の真意だと考えます。 「主の徳(力)」とは、権力を表として眷属を守る力でありその働きをいいます。 これが反対になると、権力を表として眷属を奴隷にしてしまう。 「師の徳(力)」とは、智慧や英知を表として眷属を指導する力でありその働きです。 これが反対になると、師の指導を表として眷属に我見の指導をしてしまう。 「親の徳(力)」とは、慈悲・慈愛をもって眷属を慈しむ力でありその働きです。 これが反対になると、眷属を冷酷・無慈悲に扱ってしまう。 「元品の法性は梵天帝釈等と顕われ、元品の無明は第六天の魔王と顕われたり。 善神は悪人をあだむ。悪鬼は善人をあだむ」(九九七頁)とはこういうことだと思います。 民衆を救済する根本の精神――それは広大な慈悲なのです。 創価三代の師匠が根本の仏と定めた御本仏・日蓮大聖人の最大の特徴は「大慈大悲」です。 報恩抄には 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外、未来までもながるべし。 日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(三二九頁)とあります。 慈とは与楽、悲とは抜苦という意味で、不幸の因を取り去り、楽しみを与えるということです。 これは単に慈しみ愛するというだけの心情的であいまいなものではなく 「苦を抜く」という厳しい戦いと「楽を与える」という積極的な働きかけがなければ、 慈悲(抜苦与楽)とはなり得ません。 つまり、仏法で説く慈悲とは、厳しき戦いに裏打ちされた闘争と、 人々を無限に包容しつつリードしていく智慧の両面が備わったものなのです。 Tweet