投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年12月20日(日)08時57分43秒   通報
池田先生はすべてをご存知の上で、あえて側近の幹部にこのような指導をしたのではないのか。

ここからは私の想像ですが、もしかして先生は

「本来、会員一人ひとりの人間革命を手助けする存在であるはずの幹部の大半は
権威主義に陥り、末端会員は疲弊のどん底に陥っている。

このままでは会員は宗教の奴隷となり、創価学会自体が邪教集団になってしまう。

何とかしなければいけない。

ひとまず広宣流布大誓堂建立をもって三代会長と創価学会の到達点と成し、今度は三代の師匠に
連座(※頼るのではなく)したものではなく、弟子自らの闘争で競い起こる難を呼び起し、
その暗夜を突き抜けて、大聖人と同じく、また私(先生)と同じく、法華経の行者の実証(発迹顕本)を示していきなさい。

そして私(先生)亡きあとも創価学会が仏意仏勅の団体であることを世界に証明していきなさい」

と言いたかったのではないか。

幹部も組織も最悪の状態である現実を踏まえて、池田先生は最も闇の深い時だからこそ、
目の覚めるような自分自身の発迹顕本に挑戦し、そこから「師弟不二」を体得した新しい弟子が
澎湃(ほうはい)と登場する機運を感じられているのではないでしょうか。

そうなると、竜口で発迹顕本が成され、
大聖人の魂魄にあらわれた“主師親の三徳”とは何か、ということが問題になってきます。

実際にその境涯で書かれた開目抄には

「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(二三二頁)とあり
「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師親)父母なり」(二三七頁)とまで言い切っています。

「柱」を主の徳
「眼目」を師の徳
「大船」を親の徳

と拝することは、すでによく知られている事実で、大聖人自ら末法の主師親であると宣言された御文は多い。

この“主師親の三徳”を一切衆生に対して平等にもっているのが、救済者としての仏であり、地涌の菩薩なのだと思います。

「日蓮と同意(同じ精神・心)ならば地涌の菩薩たらんか」(一三六〇頁)とある通りです。

そして、そのさきがけの棟梁を「本仏」と呼ぶなら、非常に納得のいく話です。