2015年12月19日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年12月19日(土)15時47分58秒 通報 編集済 「根源の法(妙法)」が宇宙にもともと実在しているといっても、 その哲理を体現した法本尊と、それをその通り、人格として体現した先駆者(仏法指導者)がいなければ、 衆生にとっては何も知ることができず、現実に存在しないのと同じになってしまいます。 そうなると法本尊は単なる法のみに終始し、本尊としての意味もないことになる。 ここに人本尊の重要性が生まれてくるのです。 人本尊とは、まさにこの「法・真理」を悟り究め、わが身に体現するとともに、 その体現する道を全民衆に開き、同じ境涯に至らしめる偉大な人格者のことだと思います。 大石寺・日寛は六巻抄のなかで 「人の本尊とは、即ち是れ久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・大慈大悲の南無日蓮大聖人是なり」 (文底秘沈抄10㌻)と述べています。 これは天台の教判である五重玄義(名・体・宗・用・教)から配して述べられたものです。 つまり、 「久遠元初の自受用報身の再誕」は体(当体) 「末法下種の主師親」は教(活動の影響) 「本因妙の教主」は宗(その特徴) 「大慈大悲」は用(その働き) 「南無日蓮大聖人」は名(名前) です。 詳細は省きますが、日寛は人本尊をこの五面から詳細に解き明かし、 大聖人が生涯の振る舞いの中で、発迹顕本した証拠として 「現証(日蓮といゐし者は・・・魂魄・佐土の国に至りて)二二三頁」と 「文証(三世の諸仏の・・・成道なり)」をもって裏づけとし、 日蓮大聖人こそが末法の御本仏(人本尊)であると論証しました。 この日寛の立てた原理は永遠に変わらないものであるし、変えてはいけないものだと思います。 大聖人が竜口において暗い闇の“時刻”を突き抜けて、我が胸中に“主師親の三徳”を具備したことを到達点として、 それ以降、大聖人は弟子たち自身の発迹顕本を呼びかけていきます。 そして、在家の代表的存在であった四条金吾や池上兄弟は、 師匠に連座したものではなく自らの闘争で競い起こる難を呼び起し、 その暗夜を突き抜けて師匠と同じく、見事に法華経の行者の実証を未来の弟子に示してその足跡を残しました。 これと同じく、池田先生も今、弟子たちに対して《自分自身と創価学会の発迹顕本を頼む》と呼びかけられました。 ・・・・つづく。 Tweet