投稿者:信濃町の人びと 投稿日:2015年12月10日(木)12時36分41秒   通報 編集済

小説 新・人間革命3巻 月氏の章より②

月氏(37)
 一行は、管理委員会の委員長の厚意に、心から感謝した。
 関久男が、用意してきた学会紹介書の『ザ・ソウカガッカイ』を、委員長に贈り、謝意を述べた。

 「私たちは、あなたのご厚意を永遠に忘れません。ありがとうございます」
 関が手を差し出すと、委員長は、その手を強く握り締めた。

 「私も、日本の方とお会いできて、本当に嬉しく思っています。
 もし、あなた方の来訪が事前にわかっていたら、もっと十分な準備と協力ができたと思います。

 去年、日本の皇太子と美智子妃がこのブッダガヤに来られた折、私がご夫妻をご案内したのです」
 委員長はこう言って、机の中から、その時の写真を取り出して見せてくれた。

 一行は、委員長と一緒に「東洋広布」の石碑を囲んで、記念写真に納まった。

 それから係官の案内で、釈尊成道の地ブッダガヤの大菩提寺(マハーボーディ・テンプル)に向かった。ガヤからブッダガヤまでは、十キロメートルほどの道程であった。

 難問を解決した一行の心は、軽やかだった。車窓の景色も一段と明るく、輝いて見えた。
 彼方には、なだらかな起伏の丘が連なり、緑の茂みが広がっていた。

 道路の並木の間には、土でつくった家が点在し、その壁には、牛フンを乾燥させて燃料にするため、円形に延ばして並べてあった。

 そんな昔ながらの暮らしぶりが、牧歌的で微笑ましかった。

 しばらく行くと、樹林のなかに、真昼の太陽を浴びた大塔が輝き、天を突き刺すかのようにそびえ立っていた。大菩提寺である。

 一行は、大菩提寺の前で車を降りた。境内に一歩足を踏み入れると、大塔の大きさに圧倒された。方錐形の大塔の高さは、約五十メートルもあるという。

 この塔の原型は、紀元前三世紀、ここを訪れたアショカ大王の時代に建てられたといわれる。

 しかし、その後、崩壊して再建され、何度か拡張されたり、改修が加えられ、今日にいたっている。
 境内は、随所に色とりどりの花が植えられ、よく管理が行き届いていた。

 一行はここで、係官から大菩提寺の管理責任者である総監督を紹介された。
 日本人によく似た顔立ちの、白衣を身に着けた三十歳前後の男性だった。
 総監督は、にこやかに一行を迎えてくれた。

月氏(38)
 森川一正は、通訳を介して、総監督に訪問の目的を告げた。

 「私たちは、この寺の周辺のよき地を選んで、記念の品を埋納したいのです」

 「わかりました。まず境内をご案内いたします」
 総監督の案内で、一行は境内を一巡した。石の囲いを巡らした大きな菩提樹の下が、釈尊が成道した所であるという。

 埋納場所は、日達上人と山本伸一を中心に日本で検討し、大菩提寺(マハーボーディ・テンプル)の丑寅(北東)の方向と決めていた。その方向には霊鷲山、更に日本があるからである。

 一行が、場所を選定するため、寺の外に出ようとすると、総監督が言った。

 「埋めるのは寺のなかでも構いません。ここは管理もしっかりしているし、聖地ですので、誰も掘り出したりするものはおりませんから」
 嬉しい配慮だった。

 彼らは境内を、もう一度見て歩き、丑寅の方向にあるレンガ塀の角を、埋納場所に選んだ。
 それから埋納の儀式で使用する線香やロウソクなどを購入し、埋納用の穴を掘ってもらう作業者を手配するなど、準備を急いだ。

 一方、伸一は、午前九時過ぎに、日達上人とともにパトナのホテルを出発していた。彼は車中、この儀式が滞りなく行われるように唱題し続けていた。
 伸一たちが大菩提寺に到着したのは、午後二時半過ぎであった。

 彼が車を降りると、森川が駆け寄って来て、経過を報告した。

 「それはよかった。ありがたい」
 伸一と日達上人は、埋納の場所を見た。
 「ここならいい。申し分のない場所ですね」
 日達上人も、微笑みながら言った。
 準備に入り、埋納場所の穴掘りが始まった。
 穴は五、六十センチメートル四方で、一メートルほどの深さに掘られた。

 いつの間にか、塀の周囲には人だかりができ、皆、もの珍しそうに準備を見入っていた。
 その前にイスを並べ、テーブルの上に線香とロウソクが用意された。そして、掘られた穴の傍らに、「東洋広布」の石碑と「三大秘法抄」などを入れた、ステンレスケースが置かれた。

 準備は完了した。
 伸一は、そびえ立つ大塔を仰いだ。青い空に、白い雲がまばゆく映えていた。
 彼は、この空の上から、恩師戸田城聖が、じっと見守ってくれているように思えた。

月氏(39)
 午後三時三十分。

 日達上人の導師で、唱題が始まった。埋納の儀の開始である。

 日蓮大聖人の立教開宗から七百余年、その太陽の仏法が、今まさに月氏を照らし、東洋広布の未来への道標が打ち立てられる瞬間であった。
 初めに山本伸一が「東洋広布」の石碑を手にした。

 彼は、石碑の表を、北東の霊鷲山、日本の方角に向けて、地中に納めた。

 続いて、「三大秘法抄」などを納めたステンレスケースが埋納された。

 そして、日達上人、山本伸一、同行のメンバーの順に、クワで土がかけられていった。

 埋納が終わると、その上に用意しておいた板が立てられ、そこに御本尊を奉掲し、読経が始まった。
 方便品に続いて、寿量品に入った。

 「一切世間。天人及。阿脩羅。皆謂今釋牟尼佛。出釋氏宮。去伽耶城不遠。座於道場。得阿耨多羅三藐三菩提。然善男子。我實成佛已來。無量無邊。百千萬億。由佗劫……」

 (一切世間の天人、及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏、釈迦氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に座して、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり。然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億由佗劫なり)

 このブッダガヤの地での釈尊の成道は仮の姿であるとして、仏の生命の永遠が明かされていく個所である。

 その法華経の本門寿量品の文底に秘沈された、南無妙法蓮華経という末法の大法が、月氏に還ったのだ。いよいよ、その大法が旭日となって、東洋を照らし出していくのである。

 寿量品の長行に続いて、一閻浮提広宣流布を祈念する「願文」を、日達上人が朗読していった。

 「……虔みて宗祖日蓮大聖人御聖教三大秘法抄一巻と並に法華経要品一冊及び記念品として 大石寺域の土を以て焼ける湯呑一個を 今此の伽耶城の霊跡に納め奉る
 其の意趣如何となれば 夫れ此の地は大聖釈尊始成正覚の妙域なり 法華経を説きて近成を破し久成を立つると雖も畢竟して釈尊は是れ五百塵点本果脱益の教主なり されば即ち霊山虚空会 法華経神力品の時地涌の大士上行菩薩に寿量文底三秘の大法を付嘱して云く日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅すと云々……」
 その声は、厳かに辺りに響いた。

月氏(40)
 日達上人の「願文」の朗読が続いた。

 「茲に於て上行の再誕宗祖日蓮大聖人 本地は久遠元初自受用身 本因下種の本仏として末法日本国に出現し給ひ 三秘の大法を以て普く一切の衆生を利益し給ふ
 是等の仔細則ち此の三大秘法抄に顕然なり 然らば本因下種の仏法閻浮に流るべきこと必定なりと云ふべし……」

 「願文」は、あの「諫暁八幡抄」の仏法西還を予言した御文をあげ、次のように結ばれていた。

 「……この地月氏国印度に到り 東洋広布の魁をなせり 門葉緇素の感激之に過ぐるものあらず
 願くは本仏日蓮大聖人 我等が微意を哀愍せられ 一閻浮提広宣流布の大願を成就なさしめ給はんことを
 一九六一年 日本国昭和三十六年二月四日……」
 再び読経に移り、自我偈を読誦し、題目に入った。

 月氏の天地に、朗々たる唱題の声が響き渡った。
 山本伸一は、東洋の民衆の平和と幸福を誓い念じながら、深い祈りを捧げた。

 埋納の儀式は、やがて、滞りなく終わった。

 その時、儀式を見ていた一人の見物人が、伸一たちの方に、静かに歩み寄って来た。チュパと呼ばれるチベットの民族衣装を身にまとい、頭にターバンに似た布を巻いた老人であった。

 老人は、てのひらに花びらを捧げ持ち、一行の前まで来ると、深く頭を垂れ、それを大地に散らし、手を合わせた。予期せぬ散華の儀式となったのである。

 今ここに、仏法西還の先駆けの金字塔が打ち立てられた。

 伸一は、戸田城聖を思い浮かべた。彼の胸には、恩師のあの和歌がこだましていた。

  雲の井に
    月こそ見んと
       願いてし
  アジアの民に
     日をぞ送らん

 この歌さながらに、空には太陽が輝き、そびえ立つ大塔を照らし出していた。

 彼は、恩師への東洋広布の誓願を果たす、第一歩を踏み出したのである。

 アジアに広宣流布という真実の幸福と平和が訪れ、埋納した品々を掘り出す日がいつになるのかは、伸一にも測りかねた。

 しかし、それはひとえに彼の双肩にかかっていた。

 ″私はやる。断じてやる。私が道半ばに倒れるならば、わが分身たる青年に託す。出でよ! 幾万、幾十万の山本伸一よ″

 月氏の太陽を仰ぎながら彼は心で叫んだ。