2015年12月6日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年12月 6日(日)15時59分38秒 通報 この三種類の弟子がしゃべる言葉を仮に「論理言語・詩的言語・実感言語」とすると、 彼らのしゃべっている言葉は、同じ言葉をしゃべっているようで実は違う場合が多いのです。 これらを理解していないところから、いらざる誤解を受けたり、反目したりといったことが起こるのだと思います。 論理言語を得意とし、それを大切にしている人が「持国天王・毘沙門天王は・・・」などの言葉を語り出すと 「それが信心の本筋とどう関係あるのよ、なんか邪宗みたいでイヤだわ。そんなことより新聞啓蒙よ」 と訳もわからずキレそうになる人がいる。 逆に、 詩的言語を大切にしている人が「シェイクスピアのソネット集には・・・」と語り出すと 「ソネット集を読むより御書講義録を読め、先生の提言を読め」と言いだす人もいる。 こうなってくると、同じ学会員でありながら対話の糸口が見えなくなり、 「・・・・?」 となる。 持妙法華問答抄には 「上根にくらべても卑下してはならない。下根を見捨てないのが仏の本懐だからである。 下根に比べても高慢であってはならない。上根も救いに漏れるもことがある。 心をつくして仏法を求めないからである(通解)」(四六六頁)と述べています。 だから皆さん、忘れないでほしい。 弟子には三種類のタイプがいて、どれが一番弟子とか二番とか序列はないということを。 仏にとってはどの弟子も大切なのです。 この三者が互いに謙虚になり、相手を思いやって協力していかなければ広宣流布は絶対にできないのは確かです。 その意味において、次ぎは 私たち弟子も常に戒めていかなければならないことを「未顕真実」を通して考えていきたいと思います。 Tweet