投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年12月 6日(日)16時00分17秒   通報

釈尊は法華経を説くにあたり、開経として無量義経を説きましたが、
その中に「四十余年、未顕真実」という言葉が出てきます。

これは「今まで説いてきた教えは権(かり)の教えである、これから述べる法華経が真実である」という意味です。

権の教えとは、一時的なもの・間に合わせという意味で、決してウソの教えではありません。
あくまでも一時的なもの、全体のなかの一部分を説いたもので「完成」ではないということです。

では、法華経以前の教え(爾前経)で釈尊が明かさなかった真実とは何か。未顕真実とは何なのか――。

持妙法華問答抄を読むと、法相宗の徳一大師の立てた義を《どのように心得るべきであろうか》という質問に対して、
大聖人は伝教大師が徳一の義を破折した事例を紹介され、次ぎのように述べました。

「答えよう。
『法華経は二乗のためにとかれた経であり、菩薩のためではない。ゆえに未顕真実ということは二乗に限るべきである』
というのは徳一大師の義である。これは法相宗の人である。

このことを伝教大師が「現在の麤食者(そじきしゃ)の偽りの書物を数巻作って正法を謗り、人を謗っている。
どうして地獄に堕ちずにいられようか」と破折されたので、徳一はこの言葉に責められて 舌が八つにさけ死んでいった。

しかし『未顕真実』とは二乗のためであるというのは、最も道理を得ている(通解)」(四六三頁)と。

そしてこの《未顕真実は二乗のためであるというのは、最も道理を得ている》理由として、

釈尊の布教のもともとの趣旨は、二乗を正しい道に導くためであり、
釈尊一代の化儀である三周の説法も、二乗を正しく教えるためであった(趣意、同頁)と語り、

①華厳経には地獄の衆生は仏になっても二乗は仏になることができないと嫌い。
②方等経典には高い峯には蓮が生じないように二乗は仏の種を焦がした衆生である。
③般若経には五逆罪の者は仏になるが二乗は成仏が叶わないと捨てられた。

と三つの経典を引用して、

このような「あわれな捨てられた人」が仏になることをもって仏の本意とし、
法華経の要の内容とするのである(趣意、同頁)と訴えました。

これを見てもわかるように、法華経が説かれるまでは二乗の嫌われ方はひどいものです。