2015年12月6日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年12月 6日(日)15時57分30秒 通報 本題に入る前にもう一つ。 それらに関連して「化法・化儀の問題」について少々触れておきたいと思います。 その理由は肝心の教義のことになるとほとんど無反応に比べて、 化儀のことになると途端に過激になり、過剰反応する人が後を断たないからです。 そもそも御本尊の書写様式や勤行形式の問題は、化法・化儀のうち、化儀の部類に入ります。 化法は日蓮大聖人が立てた法門です。 化儀はその法門をどのように具体化し、実践するかという形のことです。 大聖人は化儀について消息文などで少し述べられていますが、理論だった規定はされていません。 だから化儀は大聖人滅後の和合僧団に委ねられてきたのです。 いってみれば、和合僧団の合議で物事や形式が決められていき、 しかもそれは決して絶対的なものではないのです。 むしろ時代とともに変わっていくものです。 かつて「日興門流」が分裂したのも日興上人滅後、方便品を読むか読まないか、という 化儀の問題で低劣な議論が起こり、北山本門寺と西山本門寺が分裂しました。 それを皮切りに、日興門流の分裂が繰り返されてどんどん日興門流は弱体化していきます。 創価学会が登場した頃には、まさに日興門流は疲弊のどん底にあったのです。 この歴史は他門流の笑いものにさえなっています。 その歴史と同じ過ちを繰り返そうとする人々は厳に慎まなくてはならないと思います。 とともに、その愚は強く戒めなければならない。 勤行様式やご観念文などの化儀は、独立した教団ならば制定する権利を持っていて、 会員が信仰しやすいように整備し変革するのは当然のことです。 そこでは日本が中心だとか、日本が「本」で海外が「末」だとかいう、本末議論などは通用しません。 (※だからといってこういう議論を否定はしない) このような化儀は一応の目安であって 「必ずこうでなければならない」 「こうしなければ功徳がない」 などというバカげた理屈もまたおかしい。 Tweet