2015年12月6日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年12月 6日(日)15時56分45秒 通報 学会が推進している支部・地区の御書学習会に参加して、 講義担当者の話す内容を聴いていると、時どき違和感を感じることがあります。 御書を読むときに、そこに何が説かれているのかを問うのでもなく、 文脈を考えるのでもなく、掘り下げるのでもなく、 自分の予備知識とあらゆるところから集めてきたネタを盛り付けて、 その意識は「いかに説明するか」という方向に力点が置かれているように思います。 そこには己自身への厳しい問い直しもなく心は外に向かっていて、 御書が自分自身へ問いかけているものを見落としています。 もちろん、御書講義をする場合は、参加者を引き付けなくてはならないし、 わかりやすく話さなければ飽きてしまうから話術も必要でしょう。 しかしそれは教学の問題ではなく、御書の問題ではありません。 そんなことばかりをしていたら、自分で考える習慣がなくなり、 いつまでたっても御書が自分で読めなくなります。 そしてそれを何十年やっても御書を読み開く力はつかず、 御書を拝読する喜びを知ることはできないでしょう。 池田先生は二十一世紀を幸福にするには「智慧の世紀」とする以外にない、と表明し 「知識は伝達できても、智慧は伝達できない。自分が体得するしかないのです」(法華経の智慧一巻二四頁) と語られました。 実践の教学というならば、まず自分が「この御文を深く読みたい」ということが第一義だと思います。 ポイントだけを教えるのではなく、キーワードを見つけ、 自分の問題意識からどう開いていくか――こういう説明や講義も必要ではないでしょうか。 要するに、講義担当者に御書を拝読する喜びがなければ、どんなに先生の指導を並べようと、 笑いを取ろうと、参加者の心には何も焼き付けることはできないということです。 Tweet