投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年12月 2日(水)18時11分23秒   通報

>持戒尊貴を笑う
という意味を教えていただけますか?<

末法においては三大秘法の御本尊を受持することが唯一の「持戒」となります。このことから、信心している人(学会員)が、持戒尊貴の人にあてはまります。持戒尊貴を、広略要にあてはめるならば、仏界を開くことのできる可能性のある一切衆生が広で、その中で御本尊を受持している人が略で、さらに身軽法重の法華経の実践者が要となります。持戒でさらに尊貴となれば、要である法華経の実践者があてはまるのではないでしょうか。

御書の「持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず」(P960)の御文は、常の因果の説明のために用いているものです。常の因果とは、一般的な因果応報であり、「自分がしたことは自分にかえってくる」という、誰もが知っている因果論です。しかし、大聖人が迫害される理由は、常の因果ではなく、「過去に法華経の行者を軽易せし故に」、常の因果の八つの大難に遭っていると言われています。

常の因果では、過去に行った行為がすべて自分にかえってくるということなので、絶望的です。過去世に何をやらかしたかはわかりません。貧乏だからといって、人に物を施せばチャラとなり解決という類のものではない。たとえば、他人を傷(苦しみ)つけた人が、自身も同じ目に遭ったとしても、相手の傷が消えるわけではない。報いを受けたからといって許されるかどうかはまた別の話でしょう。小善を積み重ねても意味はなく、積まれた業を消滅させるには、「大善」を行じるしかない。それが題目を唱えるということです。

このことを戸田先生は法華経方便品寿量品講義で、「今病気をします。これは、過去世に病気の原因を作ったからであります。ほんとうに御本尊にお願いすれば、病気する原因が、今度は丈夫になる原因に変わります。そして丈夫になってしまいます」と。御本尊に祈ることが因となり、結果が生じる。これが日蓮仏法の因果論です。常の因果では物事の解決にはならず、下手をすると、「自分が悪い」と自身を責めるだけで終わり、漂うのは悲壮感のみとなる。常の因果でつくった業を、転重軽受させ、変毒為薬することができるのが信心です。

凡夫というのは、善業よりも悪業を積むのが常です。身口意の三業ですから、口にしなくても、心で思うことも業を積む行為です。つまり、大なり小なり毎日悪業を積んでいるのが凡夫なのです。だからこそ、日々の勤行唱題で罪業消滅を祈ることが肝心なのです。業を積んでいることは自覚することは中々できないのでやっかいです。永遠の希望様は、無理無駄なことをする人を見下してしまうと言われていますが、尊貴の人であろうと、なかろうと、見下すこと自体が何らかの業を積む行為と言えます。しかし、差別する心もまた凡夫の心であり、なくすことは困難です。人は無意識のうちに、相手を自分より上か下かで判断しているからこそ、カーストが生まれます。カーストは学校はじめ、どこにでも存在します。人を差別する心は、私の心の中にもあります。

差別する心を意識すれば、それが反省と祈りになる。日寛上人は、「暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えれば、即ち、祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」と御教示されています。常の因果でつくられた、いかなる罪業も、題目をあげて消滅させることができる。なんともありがたい信心なのです。見下してしまう自分のありのままの心を自覚し、祈りに変えていくことが大事です。毒のない人間には魅力はありません。自分の中の毒を認めることができてこそ、凡夫即仏であり、どちらか一方ではないということです。聖人君子のような人間ほど、胡散臭いものはないのです。