投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月17日(火)09時02分47秒   通報
■ 法華経の「魂」を生きる

名誉会長: 門下の疑いを解くために、いろいろ語ったけれども、大聖人の御心から言えば、諸天の加護があるとかないとか、そんなことは問題ではない、と。
ひたすら身命をなげうって妙法を弘通していく。日本国の位を譲ろうという「誘惑」にも、父母の頭を刎ねるという「脅迫」にも、断じて屈しない —- 。一切衆生を救うという「誓い」は絶対に破らない、と。
日寛上人は「一たびこの文を拝せば涙数々降る。後代の弟子等、当に心腑に染むべきなり」(文段集 p205)と言われています。

斉藤: それまでは、「法華経の経文に照らして」、御自身が法華経の行者か否かを、極限まで検証しておられた。そのうえで、ここで大きく転換なされているわけですね。

名誉会長: そう。「広宣流布」という法華経の「魂」を生きる御自身のお立場を、鮮明に宣言されている。
経文に照らして正当か否か、ではない。反対に、法華経に正当性を与えている —- いわば法華経の「魂」となるものを示してくださっているのです。それは、自分がどうなろうが、何があろうが、民衆救済はやりとげるのだという「心」です。

遠藤: 法華経を「基準」として、御自身を規定される立場から、逆に、人類を救いきるとの御自身の誓願を「基準」として、法華経を使っていく立場への転換ですね。

斉藤: 私は、この御文こそ、古今東西で最も深い「法華経論」だと思います。絶対に軽々に読んではならない、と思います。また「日蓮と同意」の広布への戦いがなければ、読めるはずもありません。日顕宗には、絶対に読めません。
■ 妙法の流れは「大風」のごとく

名誉会長: 「広宣流布」こそが法華経の魂であり、「南無妙法蓮華経」という大生命のリズムなのです。人類の境涯を仏界にまで引き上げる戦いです。
とどめようと思っても、時は止まらない。冬は必ず春となる。人類も必ず、生命の本源の妙法の方向へ、仏界の方向へ向かっていく。その推進を担える私たちは、人間として最高の名誉です。
大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは大風の吹くが如くなり」(御書 p742)と仰せだ。風は見えない。しかし、だれも風は止められない。風は、たとえビルにぶつかっても、すき間をぬって向こうに出ていく。水も、たとえ障害物があろうと、すき間をぬって流れていく。
南無妙法蓮華経の「大風」は、だれが止めようとしても止まらない。必ず人類は、自分が大宇宙と一体であるという真理に目ざめていきます。個人で言えば、題目を唱え抜いていく人は、帆に大風を受けたように、必ず人生航路を所願満足の軌道へと乗せていける。信心が弱いのは。“弱い風”です。信心が強ければ。“大いなる風”が起こるのです。全部、一念で決まる。
大聖人は、生きて帰れないといわれた佐渡に流され、最低の状況のなかで、それでも「自分を迫害した日本の人たちを救ってあげよう」「人類を救ってあげよう」と立ち上がっておられる。
これが「仏界」です。これが「法華経の魂」です。
御本尊は、この御本仏の「日蓮が魂」をしたためられたのです。この大慈大悲が「南無妙法蓮華経」という「久遠の大生命」の脈動なのです。
■ 「アヘン」でない宗教

名誉会長: マルクスは「宗教はアヘンである」と論じた。たしかに「アヘンとしての宗教」はある。それは権力悪の“手先”となって、民衆を現状に満足させ、死後の幸せだけを願わせるような「魂を眠らせる宗教」です。民衆を愚かなままにしておこうという宗教です。しかし、すべての宗教が「アヘン」なのではない。民衆を「目ざめさせる」ために、いかなる権力にも屈服しない宗教、人間らしく、自由に生きるためには、命をかけて圧迫と戦う宗教もある。
それが「法華経」です。それが「二十一世紀の宗教」です。

須田: 民衆を「目ざめさせる」 —- 閉じている生命の「法の華」を一人一人の上に咲かせていくのが「法華経」ということでしょうか。

名誉会長: 仏界の開花です。自分が最高に尊貴な存在と目覚めさせるのです。「ブッダ」というのも、もともと「開く」「目覚める」という意味です。

須田: はい。「ブッドゥ」という動詞から来ています。「ブッドゥ」というのは、目がさめたり、つぼみが開くことをいいます。ブッダは「目が覚めた人」のことであり、蓮華の花が「開いた」生命のことを言います。

名誉会長: 法華 —- 「法の華」は、「人間」の中に咲く。「人格」の中に咲く。どこまでも「人間のための宗教」が法華経です。
一人の人間を「幸福」にするために宗教はあるのです。しかし、人間を幸せにするためにあったものが、反対に、人間を縛り始める。
法華経でさえ、悪しく利用すれば、「差別」を正当化するための「権威」として使われてしまう。その「転倒」の危険に打ち勝つには、何が必要か。それが「師弟」なのです。「断じて、人を救いきっていく」という師匠の「心」を「信心」を受け継いでいくことです。

遠藤: 宗門には、師弟の精神がなくなったから、邪教になってしまったんですね。