投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月16日(月)18時37分6秒   通報
■ 「地涌の菩薩」は「永遠の行動者」

名誉会長: ともあれ、「万人が仏である」というのは口先ではない。「万人を仏にする」広宣流布の戦いがなければ「理」です。本門は「事」です。事とは「行動」です。
先ほど迹門で「師弟不二」が説かれていることを見たが、本門は本格的に、事実のうえで「師弟不二」の実践者が登場してくる。それが「地涌の菩薩」です。

須田: はい。本門は、無数の「地涌の菩薩」の出現で幕を開けます。「地涌の菩薩」とは、内証は「仏」です。

名誉会長: 内証が仏なのだから、釈尊と「師弟不二」です。しかも、仏でありながら、弟子の「修行」の立場を貫いている。菩薩仏です。永遠に前へ前へ、広宣流布へ「向かっていく」 —- 本因妙の仏法の象徴です。
大聖人が御自身を「法華経の行者」と呼ばれたことが大事なのです。

遠藤: 大聖人は釈尊のことも「法華経の行者」と呼んでおられます。(御書 p966)

斉藤: 「行動者」ですね。本果ではない。「もう、これでいい」とは言わない。

名誉会長: さあ、そこで、大聖人は、御自身が「法華経の行者」かどうかを厳しく検証されていく。それは大迫害のまっただ中であった。

須田: 佐渡流罪の時ですね。

遠藤: この時も「千が九百九十九人」(御書 p907)退転してしまいました。門下の疑いは、「法華経の信心をすれば現世安穏であると言われたのに、難が続くのはおかしいではないか」「大聖人に諸天の加護がないのは、大聖人が法華経の行者ではないからではないか」などでした。

名誉会長: その疑問を打ち破るために、大聖人は、佐渡に着いてすぐに開目抄の御執筆に着手される。そこでは大聖人がなぜ難に遭うのか、理由を明快に示されている。そのうえで、大聖人の大境涯が拝されるのは、理由を挙げられた直後のお言葉です。

斉藤: 有名な「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(御書 p232)の御文ですね。
<続いて「身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(御書 p232)>