投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月15日(日)10時46分15秒   通報
■ 人類に欠けているのは「慈愛」

須田: こうして普賢品を学んでみますと、これまで何か「知性の力」だけをイメージしていた普賢菩薩が、実は「励ましの力」であり、「行動の力」であることがはっきりして、イメージが一新しました。

名誉会長: もちろん「普賢」は「知性」も含む。「行動する知性」とでも言おうか。
単なる「知識」や「頭のよさ」ではなくて、「人を救う知性」の光です。それでこそ普賢「菩薩」になる。具体的には、「信心を根本にした知性」です。「知性なき宗教」は独善になる。その害毒の例は、枚挙に暇がない。しかし、単なる「知性」だけでは、「幸福」を生めない。
韓国の独立の闘士・金九先生の忘れ得ぬ言葉がある。
「わたしは、われわれの国家が、世界でもっとも美しい国となることを願っている。もっとも富強な国となることを願うものではない」
「現在の人類に不足しているものは、武力でもなければ経済力でもない」「現在の自然科学だけでも、楽に暮らしていくためにはじゅうぶんである。人類が現在において不幸であることの根本理由は、仁義が不足し、慈悲の心が不足し、愛が不足していることである。このような心を発達させることさえできれば、現在の物質力をもって、二十億がみな満ち足りた生活をしていくことは可能であろう」(自伝『白凡逸志』、東洋文庫)
独立を達成した後の言葉です。韓国には、これほどの政治家がいるのです。
「知性」が人類に欠けているのではなく、欠けているのは「慈愛をもった知性」です。つまり「智慧」です。これを広げるのが広宣流布です。

斉藤: 最近、アメリカSGIを学問的に研究した本が、アメリカで発刊されました。 『創価学会 イン アメリカ』という本です。<著者は、著名な社会学者である、カリフォルニア州立大学のフィリップ・ハモンド教授と、デビツド・マハチェク講師>
その論点は、こうです。 —- 1960年代からアメリカに東洋の諸宗教が急速に広まりだしたが、その中で「反社会的なもの」として危険視されて広まらなかったものと、危険視を免れて大きく広まったものとがあった。後者の広まったものも、ほとんどが急速に衰えたが、その中でSGIだけは着実に増えてアメリカ社会に定着した。それは、なぜか。
この点を、アメリカSGIのメンバーヘのアンケート調査を通して、さまぎまに分析しています。その中で、入会動機を見ますと、「SGIの目的と哲学」に魅力を感じたのと、紹介者の「人間的魅力」の二つが最大の動機で、合わせて八六%にもなります。

須田: 哲学と人格 —- 「知性」と「慈愛」でしようか。

名誉会長: その両方があって、光るのです。「自分」も光る。「法」も光る。
■ 責任感から「智慧の嵐」が!

名誉会長: 私は世界広宣流布を、一宗一派を広めようとか、そういう小さな考えでは、やっていません。地球上で妙法を唱える人が増えれば増えるほど、必ず平和の方向へ行くのです。長い目で見ればわかります。もしか核戦争が起きれば、地球は破滅です。特に、冷戦時代、第三次大戦が起きないとは、だれも保証できなかった。
口はばったいような言い方になるが、私は「法華経」という「生命の宝塔」の教えを、世界に広めてきました。まだまだ緒についたばかりだが、流れはできあがった。戸田先生は「二百年先のために今、戦っている」と言われたが、私も同じ気持ちです。
今の人類を、その子孫を、どう幸福と安穏の方向にもっていけるのか —- 。地球を背負っているような気持ちで、行動してきた。その「青任感」に立った時、頭の中に「智慧の嵐」が吹き荒れてきた。次々と先手を打つこともできたのです。

遠藤: 中国・ソ連との友情、数々の対談集、民音、富士美術館、創価大学 —- その他、先生の「智慧」から生まれたものが、どれほど人類に貢献してきたか、計り知れません。
名誉会長: 頭のいい悪いんじゃないんだよ。
「真剣」であれば、必ず「智慧」はわいてくる。
法華経の一句一偈を忘れたら、普賢菩薩が「私が、必ず教えに現れます」と誓っていたでしよう。これは、このことです。 智慧が出なかったら、普賢品は、法華経はウソになってしまう。
「自分は真剣にやっているが、智慧が出ない」という人もいるかもしれない。しかし、たいていの場合、そういう人は、内心では自分は頭がいいと思っているのです。
本当に頭が悪いと思ったら、「これでは皆に申しわけない」と思ったら、必死で題目を唱えるはずです。それで変わらないわけがない。「だれかがやるだろう」とか、「自分には関係ない」という一念が、奥底にあるのです。それがあるかぎり、「普賢菩薩の威神の力」は出てこない。「自分がやるんだ!」と信心で立ち上がった時、世間的な頭のよしあしを超えて、最高の「智慧」に適った行動になるのです。
■ 「如」「去」は師弟不二の信心

名誉会長: 戸田先生は生前、さまぎまな指導をなされた。多くの人が「そうは言うけれども、現実は —- 」という聞き方をしていた。私は全部、「その通りです」という聞き方をしてきました。全部、「その通りです」と実践してきました。
ある時は、先生は私に「どんな立場にあっても、学会を守れ」と一言おっしゃった。
師匠の一言です。たとえ万が一、戸田先生がそのことをお忘れになろうとも、そうおっしゃったことは事実だ。ゆえに、私はそのことを胸に堅く秘めながら、いついかなる時も「その通りに」やってきました。
会長を勇退して二十年。名誉会長なのだから、本来ならば、責任はない立場かもしれない。しかし、役職は仮のものだ。信心は一生涯、自分自身の「心」の問題です。
「どんな立場にあっても、学会を守れ」。師匠の一言を、私は「その通りに」全力で実行してきたつもりです。「その通り」に実行するから「師弟不二」なのです。これが法華経です。これが「如説修行」です。これが「如是我聞」の本義です。
法華経の冒頭の「如」の一字は、師弟の不二を教えているのです。この「不二」の境地を目指しての行動があって初めて、自分自身の無明の闇から「去る」ことができる。
煩悩の病から「去って」、仏界の太陽が赫々と昇るのです。それが法華経の最後の「去」の一字です。
法華経二十八品は、全体を通して、師弟不二の行動を、炎のごとく呼びかけているのです。