投稿者:まなこ 投稿日:2015年11月14日(土)19時09分51秒   通報
■ 大宇宙を縮めて「生」、大宇宙に開いて「死」

名誉会長: では、なぜ「如」が「生」なのか。

斉藤: 「法界を一心に縮むるは如の義なり」(御書 p782)の仰せがヒントになります。わかりやすく言えば、宇宙に一体となって溶けこんでいた生命が、個別の「一心」に縮まって、大宇宙即小宇宙として、この世に生を受けることだと思われます。

須田: 「如」というのは、大宇宙の「如し」ということでしようか。「如」には「なぞらえる」とか「したがう」の意味もあります。

遠藤: キリスト教でも、人間は「神の似姿」であり、「神の形の如く人間は創られた」と説きます。
この「神」を「宇宙生命」とすれば、通じる点があるかもしれません。

斉藤: 「去」というのは、「(一心を)法界に開くは去の義なり」(御書 p782)で、今度は、一個の小字宙を大宇宙へと開いて、溶け込んでいくのが「去る」ということです。すなわち「死」です。
もちろん、ここで大宇宙と呼んでいるのは、物理的宇宙のことではなく、それも含めた生命的宇宙です。地獄界から仏界までの十法界のことです。

名誉会長: 地獄界の生命で、この世を「去」った場合には、そのまま宇宙の「地獄界」に溶け込んでいく。その生命にとって、全宇宙が地獄界になるのです。宇宙のどこかに、地獄界など(の十種の場所)が定まって在るわけではない。
■ アインシュタインの直観

名誉会長: 「如」について言えば、妙楽大師は「此の身の中に具さに天地に倣(なら)うことを知る」と言って、「人体」「日月や山河」などを対応させている。総勘文抄に詳しく述べてある通りだ。(御書 p567)
また五行御書(御書 p693)にも少し記されているが、我が身を「地・水・火・風・空」と見て、それぞれ天では「土星・水星・火星・金星・木星」の五星に対応し、内臓では「脾臓・腎臓・心臓・肺臓・肝臓」の五臓に対応する等と論じる。そして、これらを貫く根本が「妙法蓮華経の五字なり」とされている。大宇宙も小宇宙も妙法の当体なのです。ゆえに一体です。
大宇宙と小宇宙が対応しているという思想は西洋の古代や中世でも見られる。近代においては、少し角度は違うが、アインシュタインは、直観的に、宇宙には厳然たる調和の法則があることを信じていたようだ。こうも言っている。
「科学という営みに真剣に取り組んでいる人ならだれでも、宇宙の法則にはある精神があらわれていると確信しています。人間の精神にはるかにまさる精神です。 —- このように、科学の営みは、宗教的な気持ちにつながります」(A・カラプリス編、林一訳『アインシュタインは語る』大月書店)
「いっさいのものが —- 私たちには制御できないもろもろの力で決まっている。昆虫についても、星についても決まっている。人間も、野菜も、宇宙の塵も、すべて神秘的な旋律に合わせて踊っている。見えない笛吹きが、かなたで奏でる旋律に」(同)

斉藤: 示唆的ですね。

名誉会長: アインシュタインは「人格神」という概念を捨てるべきだと考えていた。人格神などと言うから、科学と宗教が「衝突」するのだと。
■ 「生も自在」「死も自在」

名誉会長: ともあれ、法華経は、序品と最終品で「生死」を表している。「生と死」こそ法華経の根本テーマである証左です。
じつは、同じことは二十八品の各品についても言える。各品の初めの題号が「生」であり、各品の終わりは「死」である。各品ごとに「生死」「生死」を繰り返している。その「生死の二法」もすべて、妙法蓮華経の生死なのです。「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」です。
ゆえに、妙法を行じ、妙法と一体になるとき、初めて「生も自在」「死も自在」の境涯になる。「生も歓喜」「死も歓喜」の大境涯になる。そのために法華経は説かれたのです。「如」と「去」については、他にもたくさんの深義があるが、また勉強してもらいたい。